その国の首都のみを見ていては、その国の本当の姿を知ることはできない。これは世界中のどの国にも当てはまる事実であろう。ロシアでもこのように言われている。「モスクワは真のロシアではない」と。実際にこの言葉の意味を体現するような出来事もおきている。
それは、2011年末にロシアの下院議員選挙で不正疑惑が持ち上がった事件だ。これをうけモスクワでは大規模な反政府デモが連日行われた。モスクワの動きを中心に伝えていた欧米のメディアでは、早晩プーチン政権は崩壊するのでは?という観測がしきりに伝えられた。しかし、現実にはそうならなかった。欧米のマスコミは何を見落としていたのか。その答えが本書にはある。
本書はアメリカのABCのモスクワ支局長、NPRラジオのモスクワ特派員という経歴を持つジャーナリスト、アン・ギャレルズが「モスクワは真のロシアではない」という言葉をうけ、ウラル山脈南端にあるチェリャビンスク州および工業都市チェリャビンスク市を中心に1993年から2015年まで、10年以上に渡り地方の人々を取材し定点観測し続けた集大成である。
取材対象者も実に様々だ。ソ連崩壊に伴い誕生したニューリッチ層、高学歴のキャリアウーマン、郊外に住む貧困層の若い夫婦、エイズ患者、ジャーナリスト、NGO団体、人権活動家、ムスリム、民族主義者、ロシアでは法の下で公然と迫害されているLBGTの人々など、とにかく大勢の人々の人生と、そこから形成された価値観や思考が丹念に綴られている。
だが、まずチェリャビンスクについて少し触れるべきかもしれない。日本ではほとんど馴染みのない都市である。2013年に隕石が落下した事で一時、メディアでも取り上げられていたので、多少記憶にある人もいるかもしれない。この都市は1736年にテュルク系民族に対する軍事拠点として作られた要塞に端を発する。第二次世界大戦では軍事物資を生産する一大拠点として活躍。戦争の勝利に大きく貢献している。冷戦下では州内にある秘密の核工場を通してソ連の軍事面を支え続けた。住民の多くは自分達こそが祖国を支え続けたのだという強烈な自負心を持っている。
この自負心には、繰り返された核施設の事故により、膨大な犠牲をはらったという言う負の側面も内包している。現に放射能汚染と杜撰な管理の軍事工場からの汚染物質で州内の環境汚染レベルはロシア国内でも最悪の地域のひとつだ。また軍事工場が多く存在するため、ソ連が崩壊する1993年までは、州内に外国人が出入することが禁止されていた。閉鎖地域であったのだ。
本書冒頭でも結論がのべられているのだが、この街も多くのロシアの地方の街と同じく「プーチンの国」である。2012年にモスクワで繰り広げられた反政府運動に対しチェリャビンスクの住民は沈黙を守った。工業地域、労働者、田舎。このようなキーワードを並べると、最近話題のアメリカ保守層を読み解く「ヒルビリー」という言葉と直結させて考えてしまう。しかし、ロシアの地方が「プーチンの国」となっているのは、ロシア特有の事情が存在するし、複雑な歴史的背景があるのだ。
本書に出てくるプーチン支持派にも様々なタイプがある。高学歴でコンピューターを使いこなしネットでクールなものを探す若いギークたちの多くは政治に無関心で、ゆるいプーチン支持派だ。支持の理由は「他に適当な人物がいないから」といった程度のものだ。他方、下層階級の人々はどうであろう。不良少年で二度の服役経験を持つタクシー運転手のコーリャは著者とであった頃は緩やかなプーチン支持者だった。しかし、ウクライナの紛争が始まると熱烈なプーチン支持者に変わった。
彼はプーチン支配下にある国内の報道番組が流すプロパガンダを鵜呑みにし、ロシア人のアイデンティティの復活を口にするまでに変貌する。著者と出会った頃に抱いていた自由な国アメリカへの憧れは消えうせ、度重なる内政干渉に対する嫌悪をあらわにする。西側諸国の経済制裁はロシアに好都合で、ロシアの国内産業を復活させる、といきまく。これは、コーリャのような低学歴の人のみならず高学歴の成功者やインテリまでが本書で何度も口にしていた台詞だ。
彼はこの国がいかに腐敗まみれなのかを身を持って知っている。服役中に人道的な扱いを受けるには刑務所の幹部に賄賂を渡す必要があり、彼の母親はその費用を工面するために膨大な額の借金を作っている。そしてそのシステムの頂点にプーチンがいることも理解している。それでもプーチンを支持している。
腐敗し「法の支配」がボロボロな事を嘆くのはコーリャだけではない。多くの企業家も同じだ。企業家のアレクサンドルは腐敗の問題を指摘しつつもプーチンを熱烈に支持する。法の支配の不備を訴え、改革を望んでいるはずなのだが、「安全保障」や「ロシアが外国に対して占める立ち位置」の問題では、反政府主義者、民主主義支持派の人々と意見を異にする。この溝がどこから来るのかを読み解くのは難しい。
ひとつは1990年代のソ連崩壊だ。この時期、ロシアのGDPは30パーセント以上も落ち込んだ。ほとんどの人の給料が未払いになり、生きるために、何でも盗み売り飛ばした。男達の多くはよりどころをなくす。彼らは酒瓶片手にソファーで終日ゴロゴロし、女は現実を見つめ生きるために、家族を養うためにプライドを投げ捨て、どんな汚れ仕事もした。彼らにとってあの時代は悪夢のような時代だった。
チェリャビンスクの州議会議員でフェミニスト運動の立役者だったナターリア・バスコワは今ではすっかり宗旨替えをして政権側の人間となっている。彼女は「私はあの時代を繰り返したくない」と言い切る。外国との戦いに負け、国家が消滅しまう事への恐怖をこの言葉が端的に言い表している。彼らはプーチンこそはロシアを勝利に導いてくれる指導者と感じているのだ。
そして、プーチンは国民のこの恐怖感を巧みに利用している。この部分は『プーチンの世界「皇帝」になった工作員』(新潮社)を合わせて読むとより理解しやすいだろう。また本書で度々出てくる欧米への憧れと憎悪、猜疑心というロシア人のアイデンティティの複雑な内面は『クレムリン 赤い城塞の歴史』(白水社)を読むとより理解できる。
だが、なんと言っても最も読み応えがあるのは、この「プーチンの国」で反政府活動をしている、市井の人々だ。生真面目に不正と向き合う実業家、環境問題と人権活動に取り組む科学者や法医学者、反骨のジャーナリスト。彼らがいかにロシア政府と対峙し、世間から「外国の代理人」とののしられ迫害を受け、そして権力の脅しに命の危険を感じているかを読むと慄然とする。彼らは孤軍奮闘するも次第に追い詰められていくのである。
反グローバル主義や民族主義が台頭し、地政学と言う言葉が復活しつつある現在、様々な国で国民の分断が目立ち始めている。グローバル主義の信奉者は古今東西似たような人々であるのに対し、その反対者たちは異なる歴史的背景や文化的背景の下に反グローバリズムや排他的思考を持つにいたる。本書はロシアの地方で暮らす人々の暮らしを丹念に取材する事により、アメリカの「ヒルビリー」とは違う、ロシアの保守層を見事なまでに描き出し、また開明的であろうとする人々がいかに苦境に陥っているかを浮き彫りにしている。今の世界をより深く理解するうえで、このような緻密な取材に基づいき、対象国の深部を解析したジャーナリズムは今後ますます求められるであろう。