『チャヴ』、聞き慣れない言葉である。もとはロマ族の「子供」を指す言葉「チャヴィ」から来た、英国において用いられる「粗野な下流階級」を指す蔑称である。いくつかの英語辞典を調べてみると、「生意気で粗野な態度によって類型化される若年下流階級(オクスフォード英語辞典)」、「教養の欠如や下流階級であることを、その衣服や話し方、行動があらわすような人を示す蔑称。通常は若者を指す。(ケンブリッジ英語辞典)」、「たとえ高価であっても、その趣味が低俗であるとされる若い労働者階級(コービルド英語辞典)」などとある。
さんざんな物言いである。しかし、これらの定義を全部あわせても、チャヴという言葉を正しく理解するには足りないようだ。そこには「公営住宅に住んで暴力的」、「中流階級の謙虚さや上品さがなく、悪趣味で品のないことにばかり金を使う浪費家」、さらには、「暴力、怠惰、十代での妊娠、人種差別、アルコール依存」といったイメージまでが刷り込まれている。
チャヴをわかりやすく理解できる事件があった。マデリーンとシャノンという二人の幼い少女が相前後して姿を消した。マデリーンの失踪はマスコミで大々的に取り上げられ、その発見には3億円以上の報奨金がかけられた。それに対して、シャノンの事件は大きな反響を呼ばず、報奨金はマデリーンの50分の1にすぎなかった。どうしてこのような違いが生まれたのか。
マデリーンは高級リゾート地の寝室から、シャノンは水泳教室から貧しい公営住宅への帰り道で、その行方がわからなくなった。マデリーンは中流階級の少女で、シャノンはチャヴの子供だったのである。マデリーンは中流階級以上の人々の大いなる共感をよんだが、シャノンは「両親の破滅的な家庭環境の犠牲者」とみなされたにすぎなかったのだ。
残念ながらマデリーンは見つからなかったが、シャノンは発見された。しかし、そのことは、さらに悪い展開を見せる。シャノンの誘拐犯は、5人の男性との間に7人の子供をもうけた無職の女性・カレンのパートナーのおじであった。そのカレンはなんとシャノンの母親、驚いたことに報奨金ほしさからの犯罪だったのである。メディアは、誘拐犯よりもカレン、そしてカレンが住む地域を容赦なく攻撃する。
カレンと同じような境遇の人や、同じ公営住宅に住む人は、この事件のニュースの報道において同じような社会不適合者として描かれた。「この種のコミュニティーに属する人々はある意味で人間以下だ」と論評する評論家まであらわれる。実際には、そのコミュニティーでは、犠牲的精神を発揮してシャノンのことを探そうと必死になって探し回ってくれた人がたくさんいたにも関わらず。
この事件が如実に示すように、メディアも政治家もチャヴに対する対応は冷たく、軽蔑感に満ちている。その大きな理由は、マスコミ従事者はほとんどが中流階級の出身で、チャヴに知り合いなどおらず、その生活実態をまったく知らない、というのがいちばんの理由である。両者の社会階層が重ならないのだ。
メディアが事件を歪曲して伝える中、それを利用する政治家もあらわれる。保守党だけでなく労働党のニューレイバーたちまでもが、生活保護受給者を大幅に減らすことにした。とんでもないことだ。これは、ほとんどの政治家はメディア関係者と同じく、いや、それ以上にチャヴたちとはかけはなれた境遇に育っていることを抜きには考えられない。
あなたは、メディアや政治家の姿勢を当然、あるいは、やむを得ないと思うだろうか。少し考えてもらいたい。もし、これが、ある少数民族に対する姿勢であればどうだろうかと。けっして許されることではない。しかし、チャヴが相手なら容認されてしまうのである。シャノン事件だけではなく、他にもいくつかの実例があげられている。恐ろしいことだ。
このような状況になった背景には、階級闘争があったという。通常、階級闘争といえば、下から上への闘争を考える。しかし、ここでは違う。上から下へ向けて、富裕層が自らの利益を守るための闘争なのだ。保守党のサッチャーが仕掛けた、階級で物事を考えるのではなく、個々人の自助努力で物事を考えるようにする、という作戦が功を奏したのである。
労働者階級の中でも、向上心のある者は中流階級へと上昇し、それができない者は、貧困白人労働者階級として取り残される、という考えである。労働者たちの受け皿であった工業や鉱業が大打撃をうける中、こうして労働者階級の社会が分断されていった。分断は、公営住宅政策にもあてはまる。詳細は省くが、結果として、かつては多彩な労働者階級が暮らす場であった公営住宅は、貧しい白人労働者たちだけが住む場となった。
“西欧諸国に残っているのは貧困以外の問題です。たしかに、貧困らしきものはあるかもしれない。それは予算の立て方や、収入の使い途を知らないからです。しかし、いま残っている問題は、個人のごく基本的な性格の欠陥だけです。”
驚くような発言だが、マーガレット・サッチャーによるものである。「貧困らしきもの」は、あくまでも階級や制度の問題ではなく、能力主義的な帰結であると一国の首相が堂々と語るのである。チャヴに対して蔑視してもかまわないという姿勢がこのようにして醸成されていった。
「いまやわれわれは皆中流階級」という潮流の中、労働党は何をしていたのか、貧しい白人労働者階級は何を考えているのか、チャヴもふくめ英国の本当の姿はどうなのか、そして、今後どうすべきなのか、などなど、論が進められていく。読み応えたっぷりだ。
政治が分断を産み、分断が差別を産む。そして、さまざまな事件を通じて、知らず知らずのうちに、その差別が当然のこととして社会に受け入れられてしまう。はたして英国だけの問題なのだろうか。一旦、そのような状況になってしまうと、不可能とは言わずとも、元にもどすのは極めて困難だろう。我々が住む社会がそのように歩むことがないよう、個人個人が考えながらチェックし続けることが必要な気がしてならない。
人はだれもが悪魔になりうるのである。レビューはこちら。この本も海と月社、よく次々と分厚い本を出します。