いかなるビジネスであれ、ビジネスは人間と社会を相手に行うものである。そうであれば、僕は、人間と人間が創り出した社会の本質を理解することがビジネスにとっては何よりも大切だ、と思っている。その意味で、小坂井敏晶著『社会心理学講義』(筑摩書房)は、ここ数年の間に出版された本の中では、最高のビジネス書と呼んで差支えがあるまい。
『答えのない世界を生きる』は、その著者の最新作である。著者の作品は、何を読んでも深く考えさせられるが、本書も例外ではなかった。知的刺激に満ち満ちた素晴らしい1冊である。
本書は、二部構成をとっているが、第一部は「考えるための道しるべ」と題して、「知識とは何か」「自分の頭で考えるために」「文科系学問は役に立つのか」という3章から成る。戦後の日本はアメリカに追いつき追い越すことが目標だったが、課題先進国となった現在ではどこにも目標とすべき国はない。これからの日本は、自分の頭で考えて新たな道を切り開いていく以外に方法はない。
ところが、現在の日本は、自分の頭で自分の言葉で原点に遡って考えることが、からきし苦手である。考えるという営為について、根源的な小坂井節が次々に炸裂する。「独創性の呪縛から解放されよう」(アインシュタインは生涯で二つしかアイデアを見つけられなかった。なるほど)。「答えよりも問いが大切だ」、「型こそが自由な思考を可能にする」ので「古典から型を学ぶ」(「20点満点のうち12点を構成の適切さで判断し、残りの8点だけを内容で決める」教育を受けているからこそ、フランス人は個性を発揮する)。著者は、ケプラーやガリレオ、ダーウィンなどの自然科学者を引き合いに出しつつ精密な論理を積み上げていく。
しかし、本書が読者の心の深奥を抉り出すのは「思考枠を感情が変える」という視点が常に置かれているからだ。「公平で客観的な評価は、個性や創造性と原理的に相容れない」「正しい答えが存在しないから、正しい世界の姿が絶対にわからないからこそ、人間社会の有り方を問い続けなければならない」などなど。僕たちが普段依拠している社会の常識が、いかに脆弱なものであるかが次々と目の前に明かされる。ここから考える旅が始まるのだ。
既存のビジネスを根底から考え直す場合など、著者の思考の在り方はとても参考になるだろう(なんでも安易にビジネスに繋げるな、と著者に叱られそうだが)。「考えることの深淵を学生に垣間見せ、思索の楽しさを教える」ことが教育だと著者は述べるが、これは、社会人教育にもそのまま当て嵌まるのではないか。
第二部は「学問と実存」。「フランスへの道のり」「フランス大学事情」「何がしたいのか、何ができるのか、何をすべきか」「異邦人のまなざし」の4章構成だ。稀有な知性の半生がここで明らかにされる。思想と思想家の人生は不即不離だ。「力尽きるまで思想の戦士でいたい」という人物がどのようにして誕生したのか。
常に、事実は小説より奇なのだ。あまりにも波乱万丈で面白いので、内容を紹介するのはやめておこう。「何がしたいのか、何ができるのか、何をすべきか」。ビジネスパーソンなら、だれもが一度は直面するこの問いに、著者はどう答えたのか。名著「社会心理学講義」が生まれた背景が実によく分かる。
「答えがあると誰もが勘違いしている。だから、社会問題を扱う本の最後には処方箋が出てくる。だからハウツー本がもてはやされる。だが、『本当の答えはどこにもない』」。テセウスの舟やナイル川のパラドクスなど、先人は既にほとんどのことを考え抜いていた。「西洋の哲学はどれもプラトンの脚注にすぎない」のだから。
これほどまでに常識の壁を壊してくれるだけでも、本書は優に凡百のハウツー本100冊の価値があるだろう。考え抜くということがどういうことなのか、混迷の時代をこれから生き抜いていかなければならないすべてのビジネスパーソンに、よく生きるための格好の羅針盤として本書をお勧めしたい。引用等はその都度改行され、かつ5字ほど引き下げられているので、とても読みやすい。