他人の心は、わからないものだ。
たとえ笑顔で話しかけてきても、こちらのことを殺したいほど憎んでいる可能性はいつだって存在する。自分以外のすべての人間に憎悪されている可能性について想像し始めるとめげてしまうが、実際のところそんなことはありえないわけで、だいたいの場合においてニコニコ顔は敵意のなさ、好意の証であるとみていいだろうと、普通はそう判断して会話をすることになる。
そうやって簡単に解釈できるシグナルがあればいいが、人生には対人関係の悩みがつきものである。あの人は自分のことが嫌いなのではないか? あの人は何を考えているのか? など、解釈が難しいケースは多々存在する。基本的に人間は他者との関わりの中で生きていくしかないのだから「人間は対人関係を構築する時にどのように相手を見極め、評価しているのか」についての知識はあって悪いことはない。本書『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』は、そうした対人関係構築プロセスを解体していく、対人認知心理学についての一冊である。
では、他者を知るというとき、私たちは他者の何を、どのように、知ろうとするのだろうか。重要な社会的対象である「他者」を、私たちはいかにして心の中に描いていくのだろうか。
本書は、この問題について考えるためのものだ。他者を知り、理解し、その姿を心の中に描き出す過程である対人認知について、主要な知見を中心に議論し、その特徴について考察を進めていく。
我々は日常的に対人関係の構築を行っているから、ある意味そのプロフェッショナルと言っても過言ではない。しかし、その過程は無意識で行われており、順序、理屈立てて説明されることはあまりない。本書は、そうした「我々がほぼ無意識に行っていること」に一つ一つ理屈をつけていってくれるのと同時に、対人関係構築上、陥りがちな間違いについても教えてくれる。読んでいて何度も「おお、そういえばこんな風に考えているな……」とうんうん頷いてしまった。
対人認知の基本の基本
たとえば、その基本的なところからいくと、我々は他者を知ろうとする時には、自己紹介なりなんなりをして、年齢や性別、話し方などから「こんな人なのかな」という像をつくりあげる。毎日飲み歩いているといえば社交的な人なのかなと思うし、逆におどおどしていればコミュニケーションが苦手な人なのかなと思う。その際に、我々は他者にたいして評価を行いもする。
なぜなら、意識的にせよ無意識的にせよ、その後も付き合いを続けるのか、できるだけ避けるのかといった方針を仮であっても決める必要(というか傾向)があるからだ。約束を破ったり遅刻してきたりといった行動があれば基本的には悪い評価がつくが、やらなくてもよいはずの宴会の幹事を引き受けてくれたら積極的な人なんだなと(人によるが)よい評価につながることになる。
しろうと科学者の心の勝手な推論について
そうした評価・他者理解を、日常の中で我々はどのように実行しているか、その一例をあげてみよう。とある新入社員が、初対面の人に親しげに話しかけたり、場を盛り上げようとしていたとする。その場合上司は、なぜそのような行動をとるのかと原因を推測し、結果として「外交的で積極的な性格だからだろう」と推測を重ね、「営業活動でも顧客に対して積極的にアプローチするだろう」と考え、その後の配属先の部署を決定するかもしれない。
何やらもっともらしい推論ではあるが、単に「新入社員なのだからそうしなければ」と自分の中の常識に従って無理をしていたのかもしれないわけだから、所詮主観的な思い込みである。この例からもわかるように、我々の対人に対する認知過程は思い込みに支配されている。『私たちは行動の原因を推論する際、状況要因よりも、性格や態度などの行為者に関わる要因が原因であると考えがちなのである。いわゆる対応バイアスとか根本的な帰属のエラーと呼ばれるものだ。』
ただ、そうした認知のエラーが悪いかといえば一概にそういうわけではない。たとえば思い込みであっても予測を立てて行動が起こせるわけであって、物事は前に進む。その過程で人物像に変更が入ることもあるし、そもそも科学者のように客観性かつ再現性のある答えは、対人関係の場合は求めなくてもよいのである。相手が自分に対してかなりズレた認識を持っていても、特に問題なく会話が進むことを多くの人は経験しているはずだ。
その推論についても、読めば読むほど奥が深い事がわかってくる。たとえば「誰とも喋らずに静かにしている」という行動は、その状況が授業中の学校なのか、飲み会の最中なのかでは意味合いがかわってくる。後者の場合内気な人と推論されるだろうが、前者は特に推論されない。逆に、授業中にべらべらと喋り続けていたら、「わざわざそうした」原因はなんなのだろうかと考えることに繋がり、行為者の内的な特性にその意図を求めることになりやすい。
「あの人なら(この状況なら)通常そうするはず」という予測から外れた行動をとることで、意識して原因を求めることに繋がるのは、不良が時折良いことをすると過剰に褒められたりする理由にも繋がってくるのだろう。
より専門的な話へ
というところまでが大体第1章(と3章)の話(全7章)。その後は、2章では性格特性からみる評価の役割──たとえば、「女性は感情的だ」といった特定の集団に対して決めつけの認知をするケースへの研究の紹介が、4章ではより理論的な推論の分類、過程について、5章では人間が人間を「モノ」としか見なさなくなる(から、常識を超えた虐殺を実行できる)際の心理的過程を、6章ではいかにして道徳基準が生まれるのかの理論をそれぞれ解き明かしてみせる(7章はまとめ)。
中でも興味深かったのは4章の話題で、カップルを対象に相手の考えについての理解を問う実験を行ったところ、正確に理解を行っていたカップルの方が、不正確であったカップルよりもその後の関係が破綻する割合が高かったのだという。相手が自分にとって常に都合の良いことを考えていることはありえないし、正確な理解も場合によっては苦痛をもたらすものなのだろう。その場合、我々はお互いの理解が不確かであるからこそ、他者と円満につきああえるのかもしれない。
我々は常に他者を評価し、みきわめ、人物像を修正しながら(同時に評価され、みきわめられながら)対人関係を構築していくわけだが、理解の不可能性、困難さに加えて、「そもそも理解するべきなのか」まで思考を至らせてくれる、対人認知の心理学について、主要な知見、議論が揃っている貴重な一冊だ。