人類のグローバリゼーションは海の道と草原の道を結んだクビライ治下のモンゴル世界帝国で最初のピークを迎えた、と一般には考えられているが、モンゴル帝国の創始者・チンギス・カンについては意外とその治績が知られていない。本書は、長年モンゴルで発掘を続けてきた考古学者が描く等身大のチンギス像である。
遊牧民は放浪するのではなく、ある程度決まった場所を1年かけて季節移動する。「千戸制」を基本とする人々の集まりをモンゴル語ではウルスと呼ぶが、ウルスは季節移動する固有の領域を持っていた。人と土地のウルスを結ぶのがジャムチ(駅伝制)だ。これがモンゴルの国制の基本的な仕組みである。そして、ジャムチ制を巧く機能させるためには、治安が保たれていることが前提となるのだ。
著者が発掘したアウラガ遺跡は、今日ではチンギスの都跡(ヘルレン大オルド)であったことがほぼ確実視されているが、宮殿は思いのほか小さく質素で商店もそれほど並んでいるわけではない。金銀財宝の類も稀にしか出土しない。その代わりに目立つのが鉄工房である。遺跡全体が、いわば鉄コンビナートだったのだ。著者は発掘現場で見出した1個1個のファクトを丁寧に結び付けてチンギスの実像に迫っていく。
当時のモンゴル高原は、満洲から興った新興の金と金に西方に追われた契丹(西遼)の代理戦争の舞台だった。モンゴル族の大部分は西遼に与していたが、チンギスは金に加担して頭角を現す。おそらく距離的に近い金の先進的な文物や技術が狙いだったのだろう。高品質の鉄インゴットなど金の鉄資源を入手したことで、チンギスの軍事力は格段に強化された。モンゴルを含む北アジア地域では、11世紀後半に轡と鐙に大きな変化があった。チンギスはこれらの先進技術を活用して、馬具の軽量化を図り軽装騎兵を生み出した。軽量化自体は他のモンゴルの軍団でも見られたことだが、チンギスの巧みさは軽量化と鉄器生産技術をリンクさせたことだった。そして鉄器の安定生産を支えるため交通インフラの整備に努めた。つまり「馬・鉄・道」の3者を戦略的に選択し、経営資源をその3点に集中したのだ。
チンギスは、アウラガを含む3か所の宿営地を季節移動していたと見られる。かつては、チンギスは4人の特別な后妃をそれぞれの季節宿営地に常駐させていたと考えられていたが、現在では、チンギスとともに季節移動していたという説が主流になっている。モンゴルの国家建設のプロセスを明らかにすることによって、チンギスのヴィジョンが見えてくる。チンギスは、モンゴルの民の安全と繁栄の実現を夢見た遊牧リテラシーの高い実直なリーダーだった。世界征服を夢見た傲岸不遜な侵略者ではなかった。これが考古学をベースにした著者の結論である。