何かの分野を一筋に研究した人物の評伝には名作が多い。中でもとりわけ面白いのが、厳格でアカデミックな世界をいかに破天荒に生きたかというタイプのものだ。生きている世界と生き方とのコントラストが、読者を惹きつけ魅了するわけである。そういった意味で、本書もコントラストの妙が効いているタイプの一冊ではあるのだが、世界と生き方の関係がそれらのものとは反転している。
超常現象研究家の中岡 俊哉(1926~2001)。毎年この時期になるとテレビで怪談のコーナーや心霊特集の番組を見かけることも多いが、その礎を作った人物といっても過言ではないだろう。スプーン曲げ、心霊写真、コックリさん、透視予知など、あらゆるオカルト・ブームの中心にはいつも彼がいた。だがいわゆるブームを派手に仕掛けた業界人然としたイメージからはほど遠い。本書は怪しく、不確かな世界を、実に真摯に生き抜いた男の一代記である。
裏を返せば、真摯に生きることが面白く見えるほど、超常現象の世界は玉石混交で、取り上げるテレビや雑誌といったマスコミの世界も黎明期特有の怪しさに満ちていた。だからその人生には、ジャンルとして確立されていないテーマを扱う悲劇がつきまとう。
まだ何者でもない青年時代から、何かに導かれるように不思議な出来事ばかりが彼に直面した。馬賊になることを夢見て満州に渡るも、ときは太平洋戦争の真っ只中。なんとか製鋼所に就職するものの、終戦とともに会社は崩壊。やがて中国の地下組織の一員として国共内戦へ参加し、いつのまにか北京放送のアナウンサーへ。その過程において3度の臨死体験を経験しているというから、超常現象研究家になるまでの半生の方がアンビリバボーだ。
日本に帰ってきたのが1956年。職探しをする中で、中国時代に集めた怪奇譚をまとめることを思いつく。おりしも時代は週刊誌や漫画雑誌が雨後の筍のように誕生する真っ只中。ネタ不足に陥ってたマスコミ各社に重宝され、その後は一躍仕掛け人としてスターダムにのしあがっていく。
彼の執筆スタイルの特徴は、自分の目で見たものしか書かないというドキュメンタリー的なものであった。今では誰もが知っている、恐山のイタコ、キリストの墓、座敷わらし、将門の首塚なども、中岡みずから取材し、漫画雑誌で紹介したことから、全国に広まっていったという。そしてやがては、活躍の場を雑誌の世界から大きく広げていく。
はじまりはスプーン曲げ少年J君との出会いからであった。中岡の目の前で2本のスプーンをいとも簡単に曲げてみせたJ君は、その後中岡のアドバイスを受けながら、スプーンの切断、空中に投げた針金を念じた形に曲げるなど、目覚ましい「進化」を遂げていく。
そんな超能力少年を、テレビが放っておくわけもなかった。お昼のワイドショーへ生出演し、J君の能力は多くの人に知られるところとなる。テレビや雑誌は競うように「スプーン曲げ」を取り上げ、日本中に超能力ブームが沸き起こるのだ。
しかし、マスコミの取材合戦が加熱するうちに、批判的な声もあがり出し、ついには週刊朝日が少年の「トリック」をスクープする。事実関係を問いただされたJ君年は、「実験を繰り返す中で疲労が極に達し、念が送れる状態ではなかった」と、イカサマを認めてしまう。その後も週刊誌上を舞台に執拗なまでの「反超能力キャンペーン」が繰り返され、最終的にその矛先は中岡に向けられた。
「それでも超常現象は起きている」と信じる中岡は、バッシングにめげることもなく次の研究テーマへ没頭していく。それが、かつて一世を風靡したコックリさんであった。コックリさん自体はすでに中高生の間で流行っていたものだが、迷信のように語り継がれてきたこの現象を中岡は心霊科学の見地からアプローチしようと試みたのだ。
当事、コックリさんが異常な勢いで広がるようになると、コックリさんをやった中高生が獣に取り憑かれたような叫び声をあげるようになったり、精神を病んでしまうといった事故が多発していた。
しかし中岡は、コックリさんを「心霊科学の面でいうところの自動書記現象」と位置づけていた。心霊科学を宗教的なものとは切り離して考えることこそが、より科学的な方向へ導く第一歩と確信していたのだ。だが、この行く手にも週刊朝日が立ちはだかっていた。コックリさん「遊び」を全国に浸透させた当事者の一人として、再び中岡を断罪していく。
たしかに、中岡の心霊現象を説明する言説には、疑わしいものも多い。しかしそこには、超常現象を誤った方向へ導かないための自分なりの物差しがあった。超常現象がブームになる時は、往々にして世の中が不安な気持ちに包まれた時でもある。だから超常現象を、極端に「迷信」視するような見方では、不安を煽るだけでそれ以上のものにはならない。彼のスタンスの根底には、人間の持つ未知のパワーを人類の幸福のために活かしたいという強い思いがあったのだ。
昔のテレビであれ、今のネットであれ、メディアがアテンションを獲得する方向に傾倒していけば、いつだって情報は部分的に切り取られ、本質的な部分は伝わらない。その無念さが本書の行間の随所に滲み出ており、胸を打つ。
仮にオカルトに興味がなかったとしても、読むべき点は多々あるだろう。ブームというものがいかにして形成され、いかにして終焉を迎えるのか。そのプロセスにおいては、ブームの大きさゆえに社会問題が起こり、誰か一人がスケープゴートにされていく。そして、いつしか姿かたちを変え、また似たようブームが再び舞い戻ってくる。このサイクルを繰り返している限り、ブームが文化に変わっていくことなど到底不可能なのである。
ちなみに本書を読まれる場合は、紙の本で読むのがおすすめだ。表紙カバーの裏側まで、抜かりなくチェックしてほしい。
中岡俊哉の祖父が、天才浪曲師・桃中軒雲右衛門