2014年、ナイジェリアで学校の寄宿舎が武装した男たちに襲われ、200人以上の少女が誘拐された事件を覚えている人も多いであろう。事件後、インターネットでイスラーム過激派組織「ボコ・ハラム」が犯行声明を出し、その動画の一部は日本のメディアでも取り上げられた。組織のリーダーを名のるアブバカル・シュカウという男が誘拐した少女たちを奴隷として売り飛ばすと宣言。
200人以上の少女たちが一度に誘拐されるという衝撃性と被害者たちを奴隷として扱うという前近代的な所業、そして新たに台頭したイスラーム過激派によるテロ事件という話題性により、世界中で大きく報道された。大きな内戦や虐殺事件が起きてもそのほとんどが、先進諸国で伝えられる事のないアフリカの事件としては異例の事である。
アフリカではルワンダの虐殺事件をはじめ、様々な内戦や武装ゲリラによる凄惨な事件が続いてきた。しかし、先進諸国でこれらの事件が大きく報道される事は少なかった。また凄惨な事件を起こす武装組織側も国際社会の無関心を巧みに利用し、事件の隠蔽を図るために、その実態がより見えにくくなっていたという。例えばウガンダのLRAというキリスト教系の武装組織は80年代後半から2015年までのおおよそ20年間の間に推定で6万6000人もの子供たちを拉致、誘拐しているという衝撃的な内容も本書では記されている。
では、なぜこれほどまでに、ボコ・ハラムの事件は注目されたのだろうか。著者はインターネット普及など様々な理由をあげているが、中でも着目されるべきは、ボコ・ハラムが国際ジハードを希求する組織へと変貌し、世界的な認知度を求め、より過激な方向へとシフトチェンジしているという点であろう。彼らは求心力と他のジハード組織に認められるために注目を欲している。そしてそのためのノウハウも習得しているのである。
また、この点ゆえに私たち日本人がボコ・ハラムを注視しなければいけないと著者は指摘する。今までのアフリカの武装勢力やゲリラはあくまでも地域に限定された闘争であり、紛争地帯に足を踏み入れない限り、その剥き出しの残虐性に他国の人間が巻き込まれる可能性は少なかった。ボコ・ハラムも元々はナイジェリア国内の歴史的、制度的な問題に対するイスラーム運動であり、あくまでも地域限定の活動であったという。しかし彼らが国際ジハードに参加すると決意した時点で、その攻撃対象はナイジェリア政府に限定されたものではなくなったのだ。
サブサハラで最も経済発展が著しい国のひとつであるナイジェリア(16年におけるサブサハラ・アフリカ諸国のGDP総額1兆4114億9500万ドルの内26パーセントをナイジェリアが占めている)には日本を含め多くの外国企業の関係者も入国しており、彼らがいつテロの標的になるかもしれないのである。では、この危険なテロ組織ボコ・ハラムの思想とそれらを生み出した歴史的、文化的背景を本書に依拠しながら見ていこう。
ボコ・ハラムが活動の拠点とするナイジェリア北部にイスラーム教が伝わったのは14世紀に遡る。ナイジェリアには250ほどの民族が存在するが人口の面で3つの部族が有力で「ナイジェリア三大民族」と呼ばれている。このうちハウサ人を中心にイスラーム教が広がる。しかし、イスラーム教を受けいれたとはいえ、この地域に根付いていた土着の宗教と混ざり合い厳密な意味でのイスラーム教とはいえないものであったという。この点は仏教と神道が渾然一体となり発展してきた日本の歴史を考えれば理解しやすいだろう。
しかし18世紀になると、土着信仰とイスラームの混ざり合った状態を維持しているハウサ王に厳しい批判を行う、イスラーム主義者たちが現れる。19世紀初頭には、そのうちの一人、ウスマン・ダン・フォディオというウラマーがジハードを宣言する。ハウサ王国は複数の民族が共存する王国で、ハウサ人を筆頭に出身民族による階層社会が形成されていた。
フォディオは被抑圧民のフラニ人の出身であり、フラニ人のハウサ人に対する不満をうまくジハードと結び付け扇動し、ハウサ諸王国を撃破。スルタンにより厳格なシャリーア(イスラム法)が施行されるソコト・カリフ国をナイジェリア北部に建国する。このシャーリアによる統治がボコ・ハラムの思想の原点となる。
ソコト・カリフ国が建国された同時期に、ナイジェリア南部ではイギリスの植民地支配が始まり、1世紀後の1900年前後にイギリスは北部への侵攻を決意。ソコト・カリフ国へ侵攻、制圧し保護領化を宣言。3年後にスルタンが国外に逃亡した事によりソコト・カリフ国は滅亡する。こうして南部ナイジェリアと北部ナイジェリアという二つの保護領が誕生し、現在のナイジェリアの原型が生まれる。ちなみに南部ナイジェリアでは15世紀からポルトガル人によりキリスト教が布教されており、100年間厳格なイスラーム主義者によって支配された北部との間には大きな宗教的分断が存在する。ナイジェリアがイギリスから独立した時にこの分断がそのまま紛争の火種として残される事になる。
さらにイギリス統治時代の北部内部でも社会的な分断が誕生している。従来のイスラーム政治エリートたちは、イギリスの間接統治というスタイルを仕方ない事として受け入れ、直接統治よりはましという論法で異教徒の支配を正当化する。しかし、厳格なイスラーム教信者で納得する者は少なかった。またイギリスは現地の優秀な若者たちを総督府の官僚にすべく、近代教育を施す学校を建設。この学校の出身者を統治機構のスタッフとして登用する。従来のエリートたるイスラーム法を学んだ宗教学者は立身出世の道を断たれてしまう。イギリスの支配を受け入れ近代主義に染まった新興エリートとの間に深い溝ができてしまう。
イギリスからの独立後は南部主導の近代国家が建設され、北部のイスラーム主義者が望んでいたイスラーム主義による統治は実現しなかった。北部の政治エリート「北部人民会議(NPC)」は南部の主張に妥協しシャリーア法典の廃止を決断する。その後のナイジェリアにおける軍部の独裁政治、政治の腐敗など諸事情を背景に北部ではシャリーア法典を廃止しヨーロッパ的な近代主義を受け入れたNPCは間違っていたという考えが形成され、シャリーア法典の復活を主張する気運が生まれる。そして軍部の独裁が終焉を向かえ、民主化へと移行した際に「アフル・スンナ」と呼ばれる若いウラマーたちによる、シャリーア法典復活運動が展開し、この中の一部からボコ・ハラムへと発展する勢力が台頭する事になる。軍による強権が消えうせた事により、それまで抑圧されてきた北部のイスラーム教徒の思いが一気に噴出したのである。
彼らはナイジェリア政府との武装闘争を繰り返すうちに次第にカルト的性質を高め、残虐性を増していく事になる。特にボコ・ハラムの転機となったのが穏健派であった初代の指導者が警察の私刑により殺された事であろう。2代目の指導者、アブバカル・シュカウは筋金入りの強硬派であり、彼の手によりボコ・ハラムは国際的なテロ集団へと変貌していく。しかも、彼らの攻撃の対象は異教徒ではなくシュカウが異端と考えるイスラーム教徒に向けられる事になる。その残虐性はイスラーム国すらも眉を顰めるほどだ。なぜアブバカル・シュカウは地域に限定された武装闘争から国際ジハードという、広い世界に飛び出そうとしたのだろうか?本書を手にとりその行動原理と思考を知ることは、多くの日本人、とりわけナイジェリア最大の輸出品である原油に関わる仕事をしているビジネスパーソンにとって必ず役に立てであろう。