国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、第2位になるのが1968年、その前年に本書は出版された。高度経済成長期の真っ只中であり、急速な成長の裏返しとして公害や環境破壊が世間の注目を集め、公害対策基本法が制定された。そこから版を80回以上重ね、現在までに80万部以上を売り上げている。
発想法とは、アイディアを創り出す方法である。問題提起から記録、分類、統合にいたるプロセスをすべてカバーしている。そのため、インタビューでメモする細かい実技から、本書の核であるダイナミックにデータを統合する具体的な方法、さらに、方法論が生まれた背景にある日本人の思考の癖、禅と発想法の関わり、西洋の「有の哲学」に対する東洋の「無の哲学」まで、話題の幅は広い。
幅広い内容に読者が混乱しないように、章ごとの冒頭に読者をガイドする図解がある。その図解自体が本書で発想法の一部として紹介されているものである。本書を読み通した後に、改めて図解を見れば、すぐに復習でき便利なものである。
冒頭は書斎科学、実験科学、そして野外科学の3つに科学を分類することからはじめる。3つの関係を説明すると、実験科学と野外科学はともに、観察と経験を重視する点で共通している。違いは、実験科学は再現性を重視するため自然の条件を制御して実験を行い、野外科学は二度と同じことは起こらない一回きりの事象を対象にする。実験科学は仮説を検証することに優れていることと対比して、野外科学は仮説を発想することに適していると著者は提唱する。
また3つの科学をW型問題解決として一つのプロセスにまとめている。これは、新製品の開発などに使われている手法と比較しても遜色はなく、半世紀以上前に考えたとは思えない先見の明がある。新書一冊でまとめられる内容ではないのだが、逆にもっと深く知りたいとそそる部分が多数ある。
短い新書の中でフォーカスをあてているのが、野外科学で集めた情報を、発想としてまとめあげるプロセス、KJ法である。著者自身の豊富なフィールドワークの経験で得た知見をもとに、現場で繰り広げられる情報を統合する名人芸を体系化した。その具体的な方法については、本書に譲るとして、ここからはKJ法が辿った紆余曲折を紹介する。
著者のイニシャルを冠したKJ法は、アイデアを出す会議や参加型の場づくりの方法論の一つとして、急速に広がったそうだ。書籍が出版され50年が経過した今でも、KJ法については書籍やWebでときおり見かけることがある(参考までにgoogle検索件数で、KJ法は約32万件、クリティカル・シンキングは約25万件、ロジカルシンキング67万件)。
いっぽうで、著者は、方法論だけが急速に広がったことによる弊害を憂いた。1984年に書き直されたあとがきには、
こうして今や、KJ法は虚名のみ高く、KJ法アレルギーにかかった人たちをおびただしく出している始末である。これが過去十数年間の貴重な教訓であった
とKJ法の普及が困難に直面したことを認めている。ここまで率直な反省の弁を自身の著書で明らかにする潔さには脱帽である。
失敗その1は、思想か技術かの二項対立である。新しいものが登場すると善は急げ、我先にと、手っ取り早く技術を模倣し実践するのは日本人の良い面でもあり悪い面でもある。KJ法も有益な方法として話題を集め、あっという間に模倣され、広く実践された。しかし、ただのモノマネではなかなか麗しい結果が出ず、KJ法に対する不平が生まれた。そして、それを制しようと思想の不理解を指摘し、警笛を鳴らす人も同時に現れ、対立がはじまった。
本来、著者が読み手に期待しているのは思想と技術を連続的なものとして扱い中道を行くことであった。しかし、KJ法は思想か技術かのいずれかに傾倒し、両極分解の陥穽に陥っていく。
KJ法は効果な機械や器具も必須ではない、誰でもできる民衆性を備えている。しかし、それがまた災いを生む。開放的民主性に感激した人たちはより多くの人に広げたいという善意を持つ。そして、基礎的な鍛錬を行う研修を「難しがらせ、敷居を高くするのは、何事か」と批判する。そして、ここでも鍛錬なしでの実践が蔓延した。地獄への道は善意で踏み固められている。
メモ用紙や付箋を並べて、一見ポップで簡単そうなKJ法だが、想像以上に奥が深く、結果に結びつけるには、知的忍耐とそれに見合った時間が必要とされる。外見と中身のギャップが大きく、KJ法にはそのギャップが悪い方向に働いた。中途半端にやるのは時間のムダであり、やらないほうがマシなのである。
そして、皮肉にも著者は日本人の思考の特性を以下のように指摘している。
日本人は一時的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。
そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである
出版から半世紀が経過した現在においても、見に覚えのある耳の痛い指摘である。
今回の改版でフォントが変わり、随分と読みやすくなった。温故知新の精神でKJ法に出会い直してみてはいかがだろうか。
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続編である。こちらも改版の出版が望まれる。
KJ法という名前になる前は「紙切れ法」だった。梅棹忠夫がツッコミをいれたことが、改名のきっかけになったそうだ。
KJ法についてのわかりやすい解説がある。昨今、話題のデザイン思考とKJ法には共通する点が多い。