昭和43年11月6日、IWWA(国際女子プロレス協会)世界選手権がおこなわれた。超満員の蔵前国技館で、32歳の小畑千代が対戦したのは米国のファビュラス・ムーラ。一本目は、いきなり反則攻撃をしかけたムーラがフォール勝ち。二本目は、必ずとると決めた小畑が攻めまくる。ドロップキックからキーロック、空手チョップから、跳び蹴り、ハンマー投げ。最後は、20キロほども重いムーラをかつぎあげての飛行機投からエビ固めで仕留めた。
残念ながら、三本目は両者リングアウトで引き分けになったが、観客は大喜び。よほど素晴らしいファイトだったのだろう、厳しさで知られた日本レスリング界の父・八田一朗が「とにかく文句なしに面白い」というコメントを東京スポーツに残している。
東京12チャンネル(現、テレビ東京)がこの試合を2週間ほど後に放映した。当時、視聴率があまりに低かったため「視聴率番外地」と他局から呼ばれていた同局が、なんと24.4%とという、開局以来最高の視聴率を記録した。
小畑千代といえば、知る人ぞ知る女子プロレスの草分けの花形ヒロインである。彼女は、小柄ながら切れ味の鋭い技といい、プロレスの盛り上げ方のうまさといい、大向こうを唸らせる演出の名手だった。わたしなども、テレビの画像を食い入るように見入り、その投資あふれる闘いぶりに舌を巻いたものだ。小畑千代という名プロレスラーの登場によって、女子プロレスというものの存在が戦後の日本の社会にあって、一気に注目されるようになった。
(稲垣正浩・日本体育大学名誉教授・スポーツ史)
まったく知らなかった。『スター誕生』の決勝で山口百恵の後塵を拝して芸能界入りをあきらめ女子プロレスラーになったマッハ文朱がはしりかと思っていた。
この試合がおこなわれた昭和43年といえば、藤純子(富司純子)が女博徒・お竜を演じた東映任侠映画『緋牡丹博徒』が公開された年でもある。「闘う自立した美しい女」が受け入れられる素地ができつつあったのだろう、女子プロレス番組はレギュラー化され、20%という高視聴率をあげるようになる。
小畑がプロレスを始めたのはまったくの偶然だ。「東京女子プロレス」の求人広告に応じようとした妹を止めに行ったところを見込まれ、その場で入門したのである。練習は厳しかったが、運動神経に秀でた小畑は、努力と研究で実力をつけていく。そしてデビューしたのが昭和30年、55年体制が築かれ、高度経済成長に突入していく時代だった。
当時のことである。女子プロレスはきわものと思われがちだった。なので、お色気は御法度。コスチュームはスクール水着のような紺色で、脚の付け根にはゴムがいれてあり、下着など絶対に見えないようになっていた。それでも「もっと股を広げろ!」などという下品な野次を飛ばす客がいたりした。そんな客に小畑は黙ってはいない。試合を中断して客席に降りて一喝する。
若い子が一生懸命、汗水たらして鼻血を出してやっているのに、何が股を開けだ、ばかやろう。お前がリングに上がってこい。私がやってやるから
客は当然縮み上がって黙り込む。しかし、これはまだましな方だ。タッグを組む佐倉輝美と示し合わせて、対戦相手の外人をリングの外に落として場外乱闘に持ち込み、そんな野次を飛ばした客のところまで髪の毛をつかんで引っ張っていく。そして、外人選手によけられたふりをして客を殴ることもあった。こうなったら、野次も命がけだ。
東京女子プロレスはわずか2年後に解散となってしまうが、小畑らは新たな団体をたちあげることなく、いまでいう「インディペンデント」として興行をおこなうことにした。国内の巡業で大人気だったのみでなく、韓国、復帰前の沖縄、ハワイへも遠征している。
韓国へは国交樹立2年前、日韓親善のために送られたのだが、占領時代の記憶が色濃く残っている頃だ、「日本(イルボン)、殺せー!」という日本語と韓国語の入り交じった野次がとびかった。沖縄へは大物やくざがプロモーターとして同行して、なにかとややこしい注文をした。いずれも時代を感じさせる話である。夢のハワイでは、3ヶ月興行して半年はバケーションにあてたというから豪気なものだ。
おもしろい興行先としては、美空ひばりの「ひばり御殿」や巣鴨プリズンなどもあった。そのころの小畑は、どこへ行く時も100万円以上持っていたという。大卒初任給が3万円台の頃だから、かなりの大金だ。また、定期的に児童養護施設を訪問し、寄附をしていた。ちょうど当時に流行していた漫画『タイガーマスク』を地で行くようなエピソードに、小畑の心根がしのばれる。
そして冒頭のテレビ放映を迎えるのだが、その前年、佐倉といっしょに浅草でスナックを開いている。プロレスができなくなった女の子たちの再雇用のためだったのだが、そのスナックはバカはやりした。地元浅草では、まるで女任侠のようにズベ公(素行の悪い少女のこと、死語か?)の喧嘩の仲裁をしたり、若い衆の面倒を見たりもした。やくざとの付き合いも多かった。
その頃浅草は、表に出たら一般人よりやくざが多い時代だったの。やくざが生きていける時代だったし、堅気だって、やくざがいなかったら生きていけなかった人がいっぱいいた。今のやくざはちょっとでも景気のいい人がいたら食いついてどうにかしようとする。昔は違う。女の子たちががんばっていたら、かわいがってくれた。この子たちを守ってあげようという感じだった
今の感覚ではよくわからないが、そういう時代だったのだろう。任侠のことと共に、その頃の浅草の花柳界のしきたりや、界隈で芸者さんのこまごました世話をする「箱屋さん」のことも紹介されている。やくざと箱屋さん、なんとなく対照的なお仕事だが、どちらも今となっては生きづらい時代になっている。
この本、小畑千代という希代の女子プロレスラーの生きざまが紹介されているだけではない。小畑の周辺が丁寧に描かれていて、高度成長期の昭和がどのような時代であったかがビビッドに浮かび上がってくる。ほんとうに明るく大らかで、夢を持ちうる世の中であったのだ。
東京12チャンネルでの女子プロレス中継はわずか1年半で終了。昭和49年には、違った形で再度放映が始まるが、それも昭和51年に終わり、以来、小畑はリングで試合をしていない。
え?それでどうして現役なのかって?生まれ変わったら、また女子プロレスラーになりたいという小畑は、今もスポーツジムに通い、筋トレとエアロビクスを日課にしているのだ。健康維持ではなく、いつでもリングに上がれるように。テレビ放映終了を機に盟友・佐倉は引退を決めたが、小畑は引退など表明していないのである。
永遠に引退はしないと思った。死ぬまで現役よ
この言葉だけで十分だろう。文句ある輩がいたら、小畑さんのところへ行ってみたらどうだろう。もしかすると、飛行機投げから得意技のロメロスペシャル(吊り天井固め)を決めてもらえるかもしれない。
プロレスラーの伝記といえば、誰が何といおうとこれだろう。おもろすぎっ!
HONZ的には、プロレスといえばこれでしょう。村上浩のレビューはこちら。