「地中海世界」や「環太平洋諸国」と聞けば誰しもそれなりのイメージが浮かぶだろう。ところが世界政治のフォーカルポイントであるにも関わらず「黒海」はそうではない。12カ国から成る黒海経済協力機構(BSEC)を知っている人がどれだけいるだろう。本書は知られざる黒海の歴史を概説した力作である。
黒海という呼び名が定着したのはオスマン朝の初期。黒海には欧州で2番目から4番目に大きい川(ドナウ、ドニエプル、ドン。最大はヴォルガ)が注いでいるが昔の黒海は湖だった。7500年ほど前、地中海の海水が流れ込み黒海は海となった。原黒海周辺の居住地は根こそぎ水没しシュメールの洪水伝説の由来となった可能性がある。黒海の海水の90%は無酸素状態であり、古代の船がほぼそのままの形で発見されている。
黒海沿岸でもっとも早く記録された種族、キンメリア人はクリミア半島にその名を残した。黒海に最初に乗り出したのはアルゴー船の伝説が物語るようにギリシア人で、スキタイの覇権と共存する形で単一の商業ネットワークを形成していた。ギリシア人は黒海沿岸から穀物を輸入していたのである。その後ペルシアとローマの勢力がこの地域に進出した。ビザンツ帝国の1000年間、黒海北方にはハザール、ルーシ、ブルガール、テュルクなどの諸民族が次々と襲来(黒海はアラビア語で「ルーシの海」などと呼ばれた)、その最後にモンゴルの平和(パクス・モンゴリカ)の時代が来る。黒海は東方からの草原の道の終着点でイタリア商人が交易に活躍したが、1347年の夏に出航したカッファ(クリミア)発ジェノヴァ行の船がペストを運んだことはつとに有名である。
その後オスマン朝が約300年間、海賊を退治し「トルコの湖」として黒海を支配する。奴隷貿易が盛んとなり、16世紀には黒海貿易の3割近くを占めた。やがてロシアが勃興し「北のクレオパトラ」エカチェリーナ大帝がクリミアを併合、両者の角逐が始まる。オスマン朝の富と安全保障の源泉であった黒海は、戦略上の重荷に転化していった。オスマン朝の衰退を危惧したヨーロッパ諸国が黒海に進出しロシアと戦火を交えたのがクリミア戦争である。クリミア戦争によって、外国による貿易の自由が保障され黒海の名が世界中に広まった。
2度の世界大戦を経て黒海の周りには、ソヴィエト式の共産主義、トルコ共和国が主導するナショナリズムという2つの異なる社会システムが存在するようになったが、1991年にはソ連が崩壊、力の空白が生まれてアブハジアなど黒海周辺地域の中では様々な紛争が生じた。プーチンのクリミア併合は黒海の覇権を再度求めたものであろう。黒海を世界に開かれた海とするのか否か、ロシアやトルコの動静とあわせて目が離せない。なお、六鹿茂夫編「黒海地域の国際関係」(名古屋大学出版会)という興味深い類書も今年になってから出版されている。