「世界三大○○」という見立てが日本人はなぜか大好きである。「料理」だったり「テノール」だったり、「〇〇」のバリエーションはいろいろだ。世界とまではいかないが、個人的に知っているところでは「芸能界三大悪妻」というネタもある。だがここでその名を明かすのはやめておこう。いま流行りの忖度というやつである。
世界三大〇〇にはもちろん「世界三大悪妻」もある。その三人とは、ソクラテスの妻クサンティッペと、トルストイの妻ソフィア、そしてもうひとりがモーツァルトの妻コンスタンツェだ。
『コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻伝説の虚実」』は、世界三大悪妻とまで称されるモーツァルトの妻の実像に迫った一冊。伝説というものがいかに形成されていくか、そのプロセスが明らかにされていてきわめて面白い。
コンスタンツェがいかにボロクソに言われているか、ちょっと見てみよう。たとえば、モーツァルトを崇拝する音楽学者アルフレート・アインシュタインは、コンスタンツェをなんと「蠅」呼ばわりしている。ハエですよ、ハエ!
このアインシュタインなる音楽学者はこう言いたかったらしい。コンスタンツェのような凡庸な女性の名前がいまでも歴史に残るのは、モーツァルトが彼女を愛したからだ。モーツァルトが人類史に永遠に名を残すような天才だったからこそ、彼女もモーツァルトとともにその名が残ることになったのだ……。それを評して「琥珀の中に蠅が閉じ込められたようすと同じ」と述べたのである。
淑女をつかまえて蠅呼ばわりとは。立派な名誉毀損だろう。だがこのコンスタンツェについては、専門家たちは治外法権かよというくらいに言いたい放題なのだ。気の毒に彼女はそんな連中から悪罵のかぎりを投げつけられてきた。それも200年もの長きにわたって、である。
ここでごく簡単に、コンスタンツェがモーツァルトと出会うまでをみておこう。コンスタンツェは1762年、ウェーバー家の三女として生まれた。父のフランツは法律家から音楽家へと転じ、ヨーロッパ有数の音楽文化が咲き誇っていたマンハイムの宮廷劇場に職を得る。
モーツァルトがウェーバー家の人々に初めて会ったのは1778年のこと。このとき、モーツァルトは21歳で、故郷ザルツブルグの宮廷楽団を辞め、求職旅行の途上だった。後に話がこじれる原因となるのは、この旅行にモーツァルトの「ステージパパ」だったレオポルトが同行していなかったことだ。
マンハイムでの就活に失敗したモーツァルトは、さらなる大都会パリに向かおうと考えるが、ここで大きな転機が訪れる。ウェーバー家との出会いだ。モーツァルトは当初、歌手だった次女のアロイジアに恋をする。しかしこの恋は父レオポルトの逆鱗に触れ、モーツァルトは別離を余儀なくされる。
その後、ミュンヘンに転居したウィーバー家のもとを、アロイジアへの募る想いを胸にモーツァルトがふたたび訪れるのだが、この恋は破局を迎えてしまう(破局の真相は不明)。どうやらこの時に、傷心のモーツァルトの世話をなにくれとなく焼いたのがアロイジアの妹のコンスタンツェだったようなのだ。
失恋して慰められているうちに……というのは「よくある話」である。本書を読んでいると、この「あるある、こういう話」と共感するところがしばしば出てくる。たとえばレオポルトは、モーツァルトが自分のあずかり知らぬところでウェーバー家と仲良くなったことが気に食わない。あまつさえ息子はその家の娘に熱をあげているのだ。
知らないところで物事が動くのが気に食わず、「聞いてないよ!」とヘソを曲げてしまう偏狭なオヤジはどこの職場にもいるし(面倒くさいですよね、こういう奴)、子どもが選んだ相手の粗探しばかりする親もあなたのまわりにひとりやふたりいるだろう(ったく、とっとと子離れしてほしいですよね)。
18世紀においても、物事がこじれるプロセスというものは、現代と変わらないのだ。読者はモーツァルトの時代を身近に感じながら本書を読み進めることができるだろう。
とはいえ、現代の感覚だけで過去を評価してはいけない、というのもまた真実である。本書が教えてくれるもっとも重要な視点はむしろこちらのほうかもしれない。
コンスタンツェ悪妻伝説のきっかけのひとつに、モーツァルトの葬儀と埋葬をめぐる一連の出来事がある。モーツァルトは1791年、ウィーンで35歳の生涯を終えるが、この時の葬儀はきわめて簡素なものだったという。しかも柩が墓地に運ばれるのを最後まで見届けるものは誰もおらず、結局モーツァルトの遺体はウィーン郊外の共同墓穴に葬られたまま行方不明になってしまうのだ。
こうした事実をもって、後世の人々はコンスタンツェがいかに冷酷だったかと非難する。だが、近年の研究では、この葬儀と埋葬のスタイルは、当時の習慣からすればごく普通のものだったということがわかっている。
当時は、ハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ二世が打ち出したさまざまな改革のひとつとして、従来の華美な習慣をあらためて質素倹約を重んじ、葬儀や埋葬の簡略化が徹底的に推し進められていた。ヨーゼフ二世の棺自体、歴代のハプスブルク家の当主のものに比べ驚くほど簡素だったという。野辺の送りに家族や友人たちが付き添い、埋葬場所に墓碑を立てることが一般的になるのは、19世紀になってからのことなのだ。
本書を読んでいると、評伝とはいったいなんだろうと考えさせられる。モーツァルトは生前、神童としてその名を貴族社会では知られていたものの、現在のように神格化されるほどの存在ではなかった。
モーツァルトの神格化は没後50周年をきっかけにはじまる。かつての領邦国家からオーストリアの一地方都市へと転落していたザルツブルグで復権の機運が高まる中、モーツァルトの生地であることをアピールしようと、記念像の建立や資料保存のための協会が設立された。
また19世紀は、ヨーロッパに市民社会が誕生した時代でもあった。市民の教養を涵養するうえで、音楽家は格好の素材となる。ベートーヴェンに象徴されるように、苦悩の人生と格闘して素晴らしい作品を生み出した偉人としての側面を、人々は「評伝」というメディアを通じて知るようになるのである。
こうした一連の流れの中で、数々のモーツァルト伝が書かれていく。これらの評伝によってコンスタンツェの悪妻イメージが形成されていくのだが、ひと言でいえばそれは、モーツァルトがヨーロッパ文化の中心的人物へと祀り上げられていけばいくほど、コンスタンツェの存在が邪魔になっていくというプロセスであった。本来は事実をもとに書かれるべき評伝が、ここでは事実を創りだす側に積極的に加担している。
もっともこれには、モーツァルトに比べてコンスタンツェの資料があまりに乏しいという事情もあった。想像力で話をふくらませられる余地がそれだけ大きかったために、彼女の悪妻化により拍車がかかった面は否めない。学究的なコンスタンツェ再評価の動きが出て来たのは、ごく最近のことである。
それにしても、コンスタンツェを悪し様に評する連中の言葉から、彼ら自身の夫婦観が透けて見えるのが面白い。「妻は夫をこう支えるべき」「芸術家の妻たるものかくあるべし」……。いちどでも結婚したことがある人は特によくわかると思うのだが、夫婦のことは当事者にしかわからない。夫婦のスタイルなんて夫婦の数だけ存在して当然だ。にもかかわらずコンスタンツェを認めることができない人々の言説から垣間見えるのは、なんとも保守的で画一的な夫婦観なのである。
何かを評論するというのは、自分自身について語ってしまうということでもある。コンスタンツェについて語ることで、彼らは自分自身がどういう人間かを告白してしまっているのだ。
え? じゃあ、おまえは夫婦についてどう考えてるんだって?
もっ、もちろん、妻にはただただ感謝の思いしかない。夫婦なんてのは、妻あっての夫である。私の願いはただひとつ。妻が幸せな人生を送ることです!
……これで私が正直な人間であるとおわかりいただけただろうか?