ノンフィクションとは、なんともとらえにくいジャンルだ。字義通りにみればそれは、フィクションではないものなのだが、もう一歩踏み込んで「フィクションではないもの」とはつまりは何なのかと考えてみよう。「ノン」という否定形ではなく、肯定系でその存在を描写しようとすると、途端にその輪郭はあいまいなものとなる。立花隆ですら「ノンフィクションとは何か、ノンフィクションとはどうあるべきかという議論はやり始めるときりがない」と語るほど、ノンフィクションを定義することは難しい。
本書は、日本でノンフィクションという存在がどのように生まれ、何を伝えてきたのかという歴史を振り返ることで、ノンフィクションが何であるのか、どうあるべきかという難問を解く糸口を与えてくれる。その歴史を知れば知るほど、ノンという接頭辞だけで簡単に切り離すことのできない、フィクションとノンフィクションの深い絡み合いが明らかとなる。その過程では、日本ノンフィクションの重要人物に加え、世界のノンフィクション史で重要となる書籍も多く紹介されているので、ノンフィクションの世界にどっぷり浸かるためのガイドブックとしても活用できる。
新書サイズに日本ノンフィクションのありったけを詰め込むために、本書はその冒頭「はじめに―物語るジャーナリズムとしてのノンフィクション」からアクセル全開で読者を引き込んでいく。ここで扱われるのは2012年第34回講談社ノンフィクション賞選考時に、選考委員の野村進が候補作である石井光太『遺体』について疑義を発したいわゆる「石井光太論争」である。野村は『遺体』や石井のその他の著作で描かれているものは事実に基づかない創作なのではないか、そもそも石井は取材を行ってすらいないのではないのか、石井の作品はノンフィクションではなくフィクションなのではないか、というところにまで疑惑の目を向けたのだ。
ノンフィクション関係者にそれなりの話題をもたらしたこの論争も、実は目新しい現代的なものではなく、著者・武田徹は「何を今さら」と感じたという。著者のこの反応は、フィクションとノンフィクションの境界を探るこのような論争がとるに足らないものであるということではなく、これまでも度々立ち現われながらも結論の出ない、ノンフィクションと切っても切れないものであるということだ。例えば、海外取材の会話場面を描写するときに、通訳を介して行われた会話を、あたかも著者自身が行ったかのように再現して書くことはルール違反だろうか。読者の読み易さを犠牲にしてでも、当地で行われたありのままを表現しなければ、それはノンフィクションではなくフィクションとなってしまうだろうか。
この種の論争は「それぞれが結局は言いっぱなしに近く、相互に検証されて、その概念の輪郭を定めてゆくような着実な手続きを踏まれたことがない」という。もちろん、この問題に自覚的なノンフィクションの書き手もいる。角幡唯介は『探検家、36歳の憂鬱』で、目を向けるべきは作品としてのフィクションとノンフィクションの境界ではなく、ノンフィクションを書こうとする表現者の姿勢なのだと鋭く指摘する。ノンフィクションの物語を完成させようとする書き手は、世界からその物語にふさわしい現実のみを拾い、紡いでいく。ノンフィクションを書こうとした瞬間にナマの現実は消え失せ、ただナマの現実に浸かっているだけではどのような物語も書くことはできない。著者は、ノンフィクションという言葉が日本に持ち込まれる以前にまで時計の針を巻き戻し、この混沌とした議論を丁寧に整理していく。
ノンフィクションという言葉が現在と同じ意味で使われるようになったきっかけを作った人物の一人は、大宅壮一である。大宅は日本ノンフィクション史の最重要人物ともいえ、巻末で著者自身が述べるように、本書は大宅の評伝としての側面も持つ。
大宅によるノンフィクションの再発明以前、1930年後半に「ルポルタージュ」という概念が日本に導入され、従軍報告から社会の実相を伝える社会科学的作品にまで広がりをみせた。1950年代にはルポルタージュは共産党などの革新勢力によって書かれるようになり、「運動としてのルポルタージュ」という色合いを濃くしていた。その対局として飛躍したのが、時流に適合して高級文化から大衆文化へのシフトを成功させた『文藝春秋』である。この『文藝春秋』で活躍したのが、ジャーナリズムに冷めた視線を向けながら、大衆の求める面白い“商品”の重要性を説いた大宅であった。
大宅以降も週刊誌のトップ屋、筑摩書房による『世界ノンフィクション全集』、テレビがもたらした新たなノンフィクションなどの幾多の転換点とその時代毎に闘わされた議論はどれも、ノンフィクションの本質に迫るための手助けとなる。
ノンフィクションが売れない時代だという。ノンフィクションを書き上げるための取材費が減り続けているという。それでも、日本のノンフィクション史を振り返り、その過程で生み出されてきたものの豊饒さを知れば、ノンフィクションにはまだ大きな可能性が残されていると信じたい。これからも、近づくことすら難しい未踏の地の興奮を、セーフティネットからこぼれ落ち絶望に暮れる人々の叫びを、何より世界の素晴らしさとどうしようもなさを伝えてくれる面白いノンフィクションが現れ続けることを願いたい。
評伝ノンフィクション、格闘ノンフィクションの金字塔。もはや説明不要の第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品。こんな面白い本を生み出してくれる可能性があるのあら、いつまでも日本のノンフィクションを応援したい。
『日本ノンフィクション史』でもキーマンとして登場する沢木耕太郎による一冊。一枚の写真に秘められた真実が徐々に明らかにされていく課程には興奮せずにはいられない。内藤順のレビューはこちら。
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