ル・カレ作品のブームが続いている。新作が各紙誌の書評欄をにぎわすのはもちろん、映画も2011年から『裏切りのサーカス』(原作は『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』)、『誰よりも狙われた男』、『われらが背きし者』と立てつづけに公開され、昨年放送されたドラマ(日本ではアマゾンが配信)『ナイト・マネジャー』も、エミー賞とゴールデングローブ賞ドラマ部門で合計5つの賞を獲得した。『ナイト・マネジャー』の成功を受けて、今度は同じBBCの制作で『寒い国から帰ってきたスパイ』のドラマ化が決定し、『裏切りのサーカス』でジョージ・スマイリーを演じ たゲイリー・オールドマンが、新作ドラマでもスマイリー役になると報じられている。
この作家は半世紀前のデビュー当時から一貫して、組織や制度と個人との対立を背景にした人間ドラマを描いてきた。その揺るぎない姿勢と業績が、激動のいまの時代に、人々の関心を集めているのかもしれない。あるいは、冷戦期のスパイたちの物語が現在の世界情勢で新たなリアリティを獲得しているのだろうか。
理由はともかく、85歳にしてなおこれほど注目されているジョン・ル・カレが回想録を書いた。それが本書である。小説執筆に先立ってかならず現地取材を敢行してきた人なので(理由を知りたければ、本書第 10 章を参照)、訪問した場所も、会った人物も多彩をきわめる。PLO(パレスチナ解放機構)議長のヤセル・アラファト、”ソ連水爆の父”と呼ばれた物理学者アンドレイ・サハロフ、ロシア対外情報庁初代長官や外相、首相を歴任したエフゲニー・プリマコフ、映画監督ではキューブリック、コッポラ、ポラック、俳優ならアレック・ギネスやリチャード・バートン、そしてイギリスのサッチャー首相、イタリアのコシガ大統領、MI6で働いた先輩作家のグレアム・グリーン……こうした面々が続々と登場する裏話が、おもしろくないわけがない。まことに失礼ながら、訳者も原書を読むまで、老境に入った作家の手すさびのようなものだろうと高をくくっていたのだが、とんでもない。近年ル・カレ自身が書いた小説に匹敵するか、それらにも勝る充実した作品だと断言できる。
この回想録を一読して驚いたことがふたつある。
まず、自分はスパイだったとあっさり認めていること。外務省職員だったころにスパイ活動をしていたことは、メディアなどあらゆるところで言われていたものの、本人がその話題に触れることはめったになかった。ところが、本書では、MI5とMI6に在籍していたことや、活動の内容すら多少明かしている。もちろん守秘義務上、もしくは信頼関係からここに書いていないことは多々あるのだろうけれど。
もうひとつは、随所にユーモアがちりばめられていること。スマイリー3部作にも、たとえばジェリー・ウェスタビーににやりとさせられる場面はあるが、もとより謹厳な作家だし、近年はユーモア精神が発揮される場があまりなかったように思う。本書ではいかにも肩の力を抜いて愉しんでいる様子がうかがえ、厳しいと同時に軽妙にもなれる人なのだと改めて感じた。
とはいえ、当然ル・カレのことだから、すべてを素直に書くわけではない。単純に善悪ではくくれない人々も登場する。たとえば、BMD(ドイツ連邦情報局)長官だったアウグスト・ハニングは友情に篤く知的な人物だが、ドイツ国内でのNSA(アメリカ国家安全保障局)の活動に陰で協力したという疑惑の渦中にある。テロ容疑でグアンタナモ収容所に入れられたクルナズというトルコ系ドイツ人が、無罪釈放でドイツに戻ってきたときにも、ハニングは最後まで頑固に入国を認めようとしなかった。
また別の章では、ナチスへの協力を拒んで冷遇されていたウルリッヒという公文書管理官が、皮肉なことに、ナチスの元党員を救済する戦後の法改正によって、思いがけず高い地位まで出世する。誰が正しくて、誰が正しくないということは簡単には示されない。
本書は全38章からなるが、それぞれ完結しているので、どこから読んでも差し支えない。映画好きなら『寒い国から帰ってきたスパイ』の映画化をめぐる話(第28章)から始めてもいいし、アフリカに興味があれば、コンゴへの取材旅行(第27章)がある。やはりスパイについて知りたいというかたには、MI6の有名な二重スパイ、キム・フィルビーの同僚かつ親友だったニコラス・エリオットとの会見(第24章)や、作者が元KGB最高幹部と会ったときの話(第20章)はどうだろう。グレアム・グリーン同様、ル・カレもフィルビーの事件から多大な影響を受けたことが、本書の記述にも表れている。それがあの傑作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の執筆に結びついたのだ。
実の父親で詐欺師だったロニーについては、この本全体でいちばん長い1章が割かれている(第33章)。『パーフェクト・スパイ』の主人公の父親のモデルになった人物だが、具体的にどういう人だったのかがわかって興味深い。母親のオリーヴが逃げ出して、こんな常識はずれの父親のもとに残された兄弟(ひとりがル・カレ)がどれほどの苦難に陥ったか、想像するにあまりある。
孤独なスパイの死(第26章)や、MI6長官の秘密の金庫(第38章)のエピソードには短篇小説のような味わいもある。ほとんどの話に多少のオチがついているのが微笑ましく、作者のサービス精神すら感じる。小説のキャラクターのモデルになった実在の人物について語っていたり、いくつもの映画化のプロジェクトがなぜ没になったのかがわかったりして、ル・カレのファンならどの章を読んでも愉しめるが、本書は、これまで難解そうだからといってル・カレ作品を敬遠してきた人にこそ、お薦めしたい。ここで触れられた小説に興味が湧いたら、まずその本から取りかかってみてはいかがだ ろう。
回想録という新境地。大御所のペンはまだまだ健在である。
2017年2月