生殖医療技術と遺伝子改変技術の目覚しい進展により、人類はすでに、自分たちの遺伝子を改変する時代に入っている。
本書の「遺伝子改変は”どこまで”許されるのか」というタイトルは、いま議論すべき喫緊の課題である。本書では、生命倫理学の専門家である著者が、生殖医療技術と遺伝子改変技術の過去と現在を紹介しつつ、この課題の落としどころを冷静に探ってゆく。
ゲノム編集技術「CRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)システム」の登場により、従来の遺伝子組み換え技術とは比較にならないほど、高効率で容易に、しかも安価に生物の遺伝子改変を行うことが可能になった。CRISPR/Cas9システムを用いた遺伝子改変により、筋肉が増量したマダイやウシなどの農産物や、医学研究のためにヒトの疾患を再現したサルが、すでに誕生している。
そして2016年、ついに世界で初めて、CRISPR/Cas9システムを用いたがん遺伝子治療の臨床試験が、中国で行われた。
がん細胞は、自分を攻撃するリンパ球(T細胞)の働きを抑える。そこで研究者らは、がん細胞の作用を受けずに攻撃力を維持したリンパ球を遺伝子改変で作り出すことを思いついた。遺伝子改変したリンパ球にがん細胞を攻撃させることで、がんを治療できると考えたのである。
この臨床試験では、肺がん患者のリンパ球を採取したのちにCRISPR/Cas9システムによって遺伝子改変し、再び肺がん患者の体内に戻した。この肺がん患者のその後の容態については、まだ発表されていない。
ゲノム編集による遺伝子治療は、がんや遺伝病の克服に光明を与えるツールであることは、間違いない。ただ、それと同時に、その安全性についてはまだ未知数なのも事実だ。
ヒトにゲノム編集を施す際に懸念されるのが、ゲノムDNA上の狙った位置以外の部分を編集してしまうことである。これはオフターゲット作用という。オフターゲット作用により、たとえばがん原因遺伝子やがん抑制遺伝子に変異を起こしてしまうと、がんを発症しかねない。
実際に、遺伝子組み換え法で遺伝子治療を受けた少なくない数の患者が、血液のがんである白血病を発症した事例もある。いずれにしても、遺伝子改変による治療を行うにあたって大事になことは、治療によって享受しうるメリットがデメリットを上回ることだ。
ところで、リンパ球のような体細胞に施された遺伝子改変は、子どもに伝わることはない。だが、卵子、精子、そして受精卵などの生殖細胞に遺伝子改変を施す場合は、その遺伝子改変が子孫に代々伝わっていく。
遺伝病の治療や予防のためであっても、生殖細胞を遺伝子改変については、よりいっそうの安全性の検証が必要になる。基礎研究によるデータを吟味し、ヒト生殖細胞への臨床応用は慎重になるべきだ。
だが、本書で紹介されている現状を鑑みる限り、生殖細胞へのゲノム編集治療はいつ起きてもおかしくないと感じる。遺伝病原因遺伝子を保有する患者当事者からも生殖細胞を用いたゲノム編集研究を望む声が出されているし、そのような研究を厳しく規制していない国も多い。
治療目的ではなく、プロスポーツ選手にすべく遺伝子改変で筋肉を増強したゲノム編集ベビーを望む親が出てきてもおかしくない。そのような親からの需要が増せば、生殖細胞への遺伝子改変サービスを提供する闇医療ビジネスもできてくるだろう。
イノベーションは、人類の倫理観を劇的に変えうる。ゲノム編集技術というイノベーションはまさに今、「ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか」という問いを私たち一人一人に投げかけている。本書を読めば、この大きな課題への理解が格段に深まるはずだ。
本書のテーマの核にもなっているゲノム編集技術について丁寧に書かれた良解説書。堀川のレビューはこちら。