冒頭、著者は「日本という国に、あのような平安京などいらなかった」と喝破する。「平安京は最初から無用の長物であり、その欠点は時とともに目立つばかりであった」と。「では、なぜ不要な平安京が造られ、なぜ1000年以上も存続したのか」と著者は畳み掛ける。そう挑発されたら、後はもう読むしかないではないか。とても刺激的な1冊だった。
日本は、大唐世界帝国の脅威に直面して立国した国である。白村江の戦いに敗れた倭は、明治時代の鹿鳴館政策と同じように、国をあげて背伸びをし、唐と同じ胡服に身を包んで律令国家を目指していく。日本という国号、天皇という称号、日本書紀という国書、全てが唐に対峙する目的で整備されたといわれている。藤原京、平城京、平安京と続く都も決してその例外ではない。
豪族たちを根拠地から切り離して京に集住させ中央集権体制を速やかに固める必要性にも迫られてはいたが、何よりも、平安京は日本の天皇の威信を物体化させたものであり、いわば威信財だった。例えば、朱雀大路は外国使節が通行し(皮肉にも渤海使以外は来朝しなかったが)、大嘗会など祭礼がおこなわれる舞台として整備されたのだ。理念優先で国力に比し大きすぎた平安京は、結局、未完成のまま造営が投げ出されることになる。
威信財であれば、実用性は当然二の次となる。藤原京、平城京、平安京のサイズにそれほどの差はないが(藤原京が一番大きく、平安京が一番小さい)、平安京は唐の長安城の28%の大きさである。当時の唐と日本の国力を比較すると、おそらく平安京は長安城の1割程度の面積で十分であったのだ。
長安の人口100万人に対して平安京の人口は10~12万人程度であったと著者は推計する。長安城と名づけられたものの治水が困難な右京は早くから衰退し、洛陽城と名づけられた左京が発展していく。平安京が「洛中」へと収束していく過程で中世~近世の京都が生まれたのだ。
本書は、時の流れに沿って平安京の変遷を綴っていく。京に住むのは貴族の義務であった(中央集権化)、唐の脅威が去っても日本の国力は増大せず政務は縮小し天皇は引きこもる(大内裏は不要となる)、摂関政治は平安京を都合の良いように再利用した(著者はオートファジー、つまり自食と呼ぶ)、院政時代の記念碑・法勝寺の八角九重塔、平家の西八条殿開発、史上最高の高さを誇った足利義満の七重塔、そして秀吉の聚楽第へと京都は脱皮していく。また京都に行きたくなった。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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