「どうして、男の子と女の子がいるの?」ラジオ番組に投げかけられた子供の素朴な質問から本書は始まる。 この他愛ないが本質的な質問に専門家は困惑しながら、「X染色体とY染色体」の話を持ち出すしかなかった。一生懸命、質問者の幼稚園児に説明を試みるが、到底理解できるはずもない。
気まずい雰囲気で終わるかと思ったその時、アシスタントのお姉さんが「○○君は、男の子だけで遊ぶのと、男の子と女の子で遊ぶのは、どちらが楽しいかな?」と問いかけると、男の子は「男の子と女の子で遊ぶほうが楽しい」と答えた。「男の子と女の子がいるほうが楽しい」 とても単純な答えだが、これこそが生物にオスとメスがいる理由なのだ。
本書は、言われてみれば誰もが疑問に思う「オスとメスがいる不思議」を生物学のトピックを織り交ぜながら、わかりやすく説明している。なぜ、生物は遺伝子の多様性を求めるのか? なぜ、生物はオスとメスの2種類に分かれたのか? なぜ、モテる個体とそうでない個体が生まれたのか?
オスとメスをめぐる生存戦略は、限りなく奥深いテーマだ。 例えば異性の好み。生物学的には流行りに乗るのが主流と言えるだろう。何故なら生物にとってモテることと生きることは、ほぼ同義の意味を持つからだ。
もし、流行に逆らうタイプのメスがいたらどうなるだろうか。長い尾羽が好まれる鳥の種類の中に、たまたま尾羽の短いオスが好きなメスがいて、その子孫を残したとする。尾羽の短い子供たちはメスから全くモテず、孫の代を残すことなく消えてしまうかもしれない。
ちなみに、生存に直接有利に働くことはないのに大多数の好みによって思わぬ方向へ進化することは、ランナウェイ仮説と呼ばれている。
人間の世界でもいろんな流行が生まれては廃れていく。今で言えば、星野源さんや綾野剛さんのような塩顔なんかもランナウェイ仮説によって突然生まれた流行ではないだろうか。シャープな目元に色白の肌は生きていくために必要不可欠なものではないはずだ。
好みや流行というものは、ときに合理性を失って暴走してしまうものだと著者は言う。 しかし、繰り返すが流行りには乗っておいたほうがいい。星野源には絶対屈しないと拳を固めている女性がいたら、少し考え直したほうが得かもしれない。
私見ではあるが、流行りに乗って臨機応変に好みを変える女性はモテる。それはオスたちがランナウェイ仮説に乗っかってマジョリティとなる子孫を求めているせいかもしれない。しかし、生物には常に多様性が必要なのだ。モテないものにはモテないなりの種全体での需要があり、受け皿となる戦略がある。
他の大きなオスのハーレムに忍び込んで、ばれないようにちゃっかりと子孫を残すゾウアザラシ。立派なオスが活動する前の真夜中の時間帯から行動していち早くメスを獲得するカブトムシ。響く大きな声のオスの近くで待機してメスを横取りするウシガエル。メスに変装して縄張りに入ってくるブルーギルや他のオスから贈り物をもらって、そのままメスに渡しにいくガガンボモドキ。 どれも立派な生存戦略と言えるだろう。
これが男らしくない、かっこ悪いという意見もあるかもしれない。だが大多数の好みに合わないからといって諦めること自体が、一番かっこ悪いのだ。
モテるためにもがき続ける限り、オスはみんな男らしいのだ。実際に小さいオスの中には、体を大きくするためのエネルギーを節約している分、多くの精子をもつ生き物も多いという。「モテるためには命をかけて戦うーーー。これが、せつなくも美しいオスの美学なのである。」
一方、メスはメスでオスを選ぶ時の苦悩がある。 なにしろ、メスはオスと比べて生殖にかけるコストが高い。妊娠時や出産時はリスクが高いし、比較的少数の子供しか残せない。より後世に残る遺伝子はどれか、見た目や強さ、贈り物の大きさといったわずかな情報から推測しなければならない。
人間であれば、これから出世するかどうか、子育てに協力的かどうか、浮気をしないかどうか、果ては義理の実家との関係はうまくいくかどうかまで様々な要因が絡んでくるからさらに複雑だ。つがうオスを選ぶことは、まさに一世一代のギャンブルである。
オスとメスはどちらが得か? オスであることもメスであることもそれぞれの大変さがあることに疑う余地はない。読めば読むほど迷ってしまうかもしれない。すでにオスかメスに生まれてしまった我々は結論を出す必要はないだろう。
ただ知っておく必要はある。全ての生き物はオスでもメスでも恋をすることに命をかけている。そこに損得なんて野暮じゃないだろうか。特にこれから恋をする若者たちに読んでほしい。自分なりの恋愛戦略を探すのにも役に立つこと間違いなしである。