2015年、地方寺院の困窮を詳細に調査した『寺院消滅』(日経BP)が大いに話題となった。その著者の次のテーマは「多死(大量死)時代の到来と葬送の変化」。社会の高齢化に伴い、今後25年ほど死亡者の数は増え続けると予想されている。
現在でも都会の火葬場は満杯の状態が続いている。待機期間は1週間から10日にもなり、遺体を保存するホテルのような施設もでき始めている。周辺住民の反対運動に対する取材も興味深い。
事実、ある知人が亡くなったときに火葬場の予約が取れず、大きな冷凍庫のような遺体保管庫で対面した。顔に霜のついた遺体と対面した時、正直ショックを受けたが、それが今では当たり前であることを知った。
「火葬待ち」はまだいい。一人暮らしの老人が増えた都会では、地縁・血縁のないまま孤独死を迎える場合も多く、2030年には2700万人に近づくという。実際、現在でも異臭によって亡くなっていたことがわかり、業者によって後始末がされることが多くなってきた。
遺族が見つかり辛うじて火葬にできたとしても、次に困るのはその骨の処理だ。骨壺を電車の網棚に置き忘れたフリをして去る、というのはよく聞く話だが、骨をスーパーのトイレに流して詰まらせる、果ては、他人のお墓に、勝手に納骨する事件まで起こっている。確かにお墓の中は滅多に見ることがないから、こんなことも怒るのだろう。
昨今では葬儀が簡略化されている。身内だけで家族葬を行ったあと「お別れの会」を催すことが多くなっているのだ。しかしこれはこれで、故人をゆっくり偲ぶには悪くないことかもしれない。
地方から都会に出て来た者、あるいは子供たちが巣立ち夫婦二人だけが実家に残された場合など、お墓も従来のようには継承できなくなっている。海へ散骨、樹木葬、ビルの納骨堂に納めるなどお墓参りも変化している。
著者は日経BPの記者であり、浄土宗の僧侶でもある。お寺に生まれたので仏教は身近であった。だからこそ今後を憂うる気持ちが強い。
第四章の原始仏教の研究家、佐々木閑氏との対談からは、仏教の根本を考え直し、人を弔うということに、非常に有意義な示唆が読み取れる。人は必ず死ぬのだ。できれば人の手を煩わすことなく逝きたいものだと思う。(週刊新潮12/15号に掲載したものに加筆しています)
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散骨など新しい形の弔い方を行った人々への丁寧な取材が読ませる。私のレビューはこちら
地方のお寺が危機に瀕している。その実態を取材した意欲作。内藤順のレビュー