人間の本性は、私たちを暴力へと促す動機――たとえば捕食、支配、復讐――をもちあわせているが、適切な環境さえ整っていれば、私たちを平和へと促す動機――たとえば哀れみ、公正感、自制、理性――ももちあわせている。
ーースティーヴン・ピンカー『暴力の人類史』
本書は、Everett Carl Dolman, can science end war? (first published in 2016 by Polity Press) の全訳である。著者エヴァレット・カール・ドルマンのプロフィールについては、本書の「はじめに」でご本人が紹介しているとおりだが、それによると冷戦時代に成長したことがキャリアのスタートに大きく影響したのが察せられる。人類を核戦争の破滅から救う道として若い日に科学に希望を見出した著者だが、軍隊に籍を置き、他分野の見識を身につけた今日、「科学は戦争をなくせない」と断言する。なぜなら科学は戦争と切り離せないものになったからだ。そして科学はことの善悪の判断をするものではないからである。
科学と戦争は双子のように一緒に育ち、一緒に成熟した。火薬の発明にはじまった技術革新は、大砲、銃、戦車、毒ガスなどの兵器を生み出し、ついに20世紀には核兵器を誕生させた。軍事史をひもとけば、新しい科学の発見があるたびに軍隊が最新の科学知識とテクノロジーを兵器と戦術に取り入れ、それによって戦争の性質が大きく変わっていったことがわかる。最近では、科学はますます高度になって細分化し、その各分野から生まれた最新テクノロジーが戦争のあり方をいま一度大きく変えようとしている。たとえばRPV(遠隔操縦機)が目標地域の上空を飛び、オペレーターは離れた安全な場所からモニターで目標を確認しながらミサイルの発射ボタンを押す。2014年のアメリカ映画『ドローン・オブ・ウォー』には、ラスベガスの砂漠の一角に設置されたコンテナのような建物の小部屋で、数名の特殊任務チームがまるでビデオゲームをするように目標を爆撃する様子が描かれている。もはやこれはフィクションではなく、このような戦争が現実のものになっているのである。科学は戦争に利用されずにはいないのだ。
ここで一つ注意してほしいのは、「科学」という言葉である。英語のサイエンス
人間の欲望や人間の本性など、戦争について考えるときにかならず問われる問題にもふれつつ、科学と戦争の固い結びつきによって軍事技術がここまで発展してしまった今日、科学と戦争のこの分かちがたい関係をどう扱えばよいかという問いに、著者は一つの答えを出している。軍事技術を宇宙開発に応用しようというのである。実現が手のとどく域に達しているといわれる現在の科学技術によって、紛争の一因であるエネルギー問題を解消する。そうすることで科学は間接的に平和に寄与できるという。そして直接的な戦争の解決方法を純粋科学の枠外に求め、民主主義国のあいだで戦争がなくなっている事実に平和への希望を見出している。
認知科学者で進化心理学者のスティーヴン・ピンカーも、第二次世界大戦以降、大国がたがいに戦争をするのをやめたことを指摘している。ピンカーの最新の著作『暴力の人類史』は、この世界から暴力が減少していることを論じるものだ。テロや殺人のニュースが毎日のように報じられているというのに、暴力が減少しているというのは意外に思えるかもしれないが、それを示す動向は各方面に見出すことができ、大きく六つに分類できるという。その一つが、大国が戦争をしなくなったこと(「長い平和」と名づけられている)であり、またそれと並ぶ最近の動向に「権利革命」が挙げられている。マイノリティや女性、同性愛者、動物などの権利を擁護する動きが現われ、これらへの暴力が嫌悪されるようになったことだ。いわれてみれば、これまで差別されたり虐待されたりしてきたものの権利を認めようとする動きは日常生活のなかで確かに感じられる。わたしたちは歴史上最も平和な時代に生きているというピンカーの言葉には、励まされるではないか。
科学は知という人類の財産であり、それが現在の世界を支えてもいる。1999年にハンガリーの首都ブダペストで世界科学会議が開催され、「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」が採択された。そのなかで、科学知識の利用に関する倫理問題について、科学者にも高度な倫理基準を自らに課すことが求められている。また、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、今年五月にオバマ大統領が来日して広島を訪問した際に新聞のインタビューに答えて、「科学技術が戦争に使われるのか、平和利用されるのかは紙一重。技術は一度、公になれば軍事利用はたやすくできる」と警告し、科学者は自分の世界にこもらず、世の中がどう動いているかをもっと知るべきだと主張した。科学者は知識を発見したあとも、その発見について責任を自覚しなければいけないということだろう。そしてこれまでに蓄えた科学知識を善のために活かせるかどうかは、科学者ばかりでなく、科学を消費しているわたしたち一般人も考えるべきであることはいうまでもない。民主主義国に暮らすわたしたちは、科学リテラシーを身につけ、意見を表明する機会を逃してはならないだろう。
2016年9月 桃井緑美子