中国では、常に古代の聖天子の時代が憧憬される。伝説の堯や舜はともかく実在が確実視される周の文王や武王、周公旦の時代である。周は約800年続いたが、これまで意外なことに読みやすい通史がなかった。本書は待望の1冊である。
従来の中国の古代史は概ね司馬遷の叙述(史記)など伝世文献に依拠してきたが、当時の金文(青銅器に彫られたもの)や竹簡などの同時代資料が陸続と発掘されるにつれ、古代王朝の実像が少しずつ詳らかになってきた。著者は、伝世文献と出土文献をバランスよく渉猟し、周を読み解くキーワードとして祀(祭祀)と戎(軍事)を取り上げた。なるほど、切れ味はよさそうだ。
殷(商)を倒して周が成立した牧野の戦い(BC11世紀後半)。これは関ヶ原のような大決戦ではなくむしろ桶狭間のような戦いであったようだ。2代成王の時代に殷の遺民が反乱を起したが、成王は東征してこれを抑え洛陽に新しい拠点をつくって諸侯を封建した。この時代から周王朝の拡大が始まり、周王は諸侯らを統合する手段として各地で会同型儀礼を行ったが、これは殷の狩猟・漁撈儀礼を引き継いだもので池水で行われた。
従来は、殷と周との間には断絶があるとする見解があったが(殷周革命)、事実は必ずしもそう単純ではなかったようだ。会同型儀礼の参加者には周王から宝貝など物品の贈与が行われ、王室が集積した財貨を再配分することによって、周王は諸侯らとの関係を取り結んだのである。
4代昭王は、領域拡大の過程で、どうやら南征に斃れたようだ。6代共王のあたりから、周王朝の支配領域拡大が頭打ちとなり儀礼も冊命儀礼(王が臣下に職務を任命)に変化する。戎と祀はリンクしていたのだ。10代厲王は暴君として追放され(共和の政)、11代宣王が周王朝を取り戻す努力を傾けたがそれも実らず、12代幽王の時代に周は滅亡する(BC771年、西周の終焉)。
周の王族が洛陽に東遷して、周という国自体はさらに500年生き延びるが、もはや祀や戎をリードする力は残っていなかった。そこで諸侯の中の有力者(春秋5覇)が台頭する。彼らが実質的には中国を統治したのである。その中で、東周9代定王は楚の荘王に鼎の軽重を問われたというわけだ。
次いで、祭祀の乱れを嘆いた孔子が礼制(祀)の再編を試みる。儒家は西周の祀を復活させたと主張したが、それは当時の東周の礼制をベースに儒家が文献に散見される西周関連の記述をたよりに修復(もしくは創造)したもので、それが代々引き継がれていったのだ。
なお、殷や漢の王墓は発掘が行われ公開されているが、西周の王墓はそれらしきものが見つかったと報道されたものの正確な場所はいまだに不明だという。もちろん発掘も行われていない。長く聖天子と謳われた文王や武王の陵墓はいかなるものだろうか。ここにも想像力を掻き立てるロマンの種が残っている。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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