タイトルだけを見れば、自分には理解できない種類の人たちが、目を覆いたくなるような行為ばかり繰り広げる内容と思われるかもしれない。だがその予想は、大きく裏切られることになるだろう。最初はよくある感情の行き違い程度なのだが、それが引き寄せられるようにいくつも重なり合い、気付けば取り返しのつかないことになっているーーそんな印象だ。
本書『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』で紹介される3つの事件は、実子への虐待、殺人、死体遺棄などで世間を賑わせたものばかりである。厚木市幼児餓死白骨化事件、下田市嬰児連続殺害事件、そして足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件。本書はこれらの事件の詳細を、丁寧に追いかけたルポルタージュである。
ネグレクト、DV、嬰児殺し。この手の事件が起これば、その親たちは「鬼畜」と呼ばれ、その非道な行為は瞬く間に広まっていく。だが、犯人たちは、いずれも法廷でこう述べた。「愛していたけど、殺してしまいました」と。
それはある意味において真実であり、量刑を軽くするための言い逃れからくるだけの言葉ではなかった。彼らは方法も感覚も大きく間違えていたが、心の底からそう思っていたフシも伺えるから話は複雑なのである。それならば、なぜ彼らは虐待を続け、そして子供たちは命を奪われることになったのか。
事件が起きた場所も経緯もまったく異なる3つの事件だが、直接手を下した親たちには共通の気質がある。その1つが「極めて強い受動的な対処様式」というものだ。下田市嬰児連続殺害事件を起こした高野 愛。彼女は高校2年生の時から10年余りの間に、8人の子供を妊娠している。妊娠した時の相手は様々だが、常に相手の男性に認知や養育費を請求することはなかった。そして中絶しようにも費用がなく、周囲に相談できぬまま出産時期を迎えてしまい、自宅で人知れず出産したことも数回あったという。
親戚や親からは「生活費」という名目で給料を搾取されており、「仕方ない」と受け入れる度に、彼女は都合の良いだけの存在へと成り下がっていく。常人ならありえないと感じるような状況でも、何とかなるという思いだけで全てを受け入れてしまうのだ。彼女の行動の中に、現実と向き合って解決策を練るといった方法は存在しない。
もう一つの顕著な気質は、「育児イメージの乏しさ」というものである。厚木市幼児餓死白骨化事件で理玖くんを死なせた、父親の斉藤 幸裕。彼は5歳の子をアパートに放置し、死に至らしめてなおも7年間放置した。妻に逃げられ、料金の未払いのためにガス・水道・電気は止められ、まるでゴミ屋敷のような環境の中で父子は生活を送っていたのである。
食事は1日1回コンビニで買ったものだけ。オムツの交換も1日1回。そんなある日、父親の仕事中に理玖くんが外へ出てしまったことから、和室への監禁が始まる。一般的には虐待と定義されるような行動を、本人は虐待という意識を持たずに行ってしまっているからタチが悪い。だから小学生がペットを死なせてしまう時のような状況で、自分の子供も死なせてしまうのだ。
さらに「計画性の欠如」という気質も、特徴的なものとしてあげられるだろう。とにかく全ての行為が、その時々の思いつきに起因する。足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件を引き起こした皆川夫妻も、行き当たりばったりな行為のなれの果てだ。生活保護が増えるから子供を次々につくる。子供が言うことを聞かないからウサギ用のケージに入れたり、犬用の首輪でつないで殴る。あげくに次男が死んでしまったからと言って、バレないように棄てる。
著者は彼らの気質の中に、自らの力ではどうにもならない要因があったのではないかと考え、それぞれの生育環境へも迫っていく。すると親だったり、妻だったり、対象こそ異なれど、彼らの最も近い位置に自己本位の権化のような人物が存在していたことが明らかになる。彼らは自らの人生を自分のコントロール下に置くことすら、出来ていなかったのだ。
もちろん同じような境遇の人たちが、みな最悪の事態に陥るわけでもない。それでも加害者を単なる非道な「鬼畜」として描くのではなく、加害者の被害者的状況にも気持ちを寄り添わせ、背景にある大きな要因を追いかけなければ、見えてこないものがあるのだ。
昨今、社会的な問題として語られることの多い児童虐待だが、センセーショナルに注目を集めるからこそ見落とされがちな罠が、たしかに存在する。報道するマスコミだけでなく、その事件にかかわる多くの関係者が、典型的な事件として処理を進める中にこそ盲点は潜んでいるのだ。刑罰だけで同じような事件の再発が防げるほど、簡単なことではないだろう。著者の筆致から、再び同じような悲劇を繰り返したくないという強い決意が伝わってくることだけが、唯一の救いだ。