『「暗黒・中国」からの脱出』は、中国当局からの弾圧対象となった若きエリートによる逃亡譚である。中国国内のイスラム村、ミャンマーの軍閥たちのアジト、チベットから獄中までという数奇な道のりの中、壮絶な出来事が次々と彼に襲いかかる。だが、なんといっても驚くのが、この話がわずか数年前の出来事であるということ。今、現代中国の「自由」は、どのようになっているのか?『中国メディア戦争』の著書でも知られる、ふるまいよしこさんに本書の読みどころを解説いただきました。(HONZ編集部)
中国では先週、ニュースサイト整頓の通達が出た。インターネットが普及して以来ずっと、新浪網、網易網、騰訊網、鳳凰網などのポータルニュースサイトが人気を博してきた。が、これらのサイトは政府がメディア記者に発給する「取材許可証」をもたないため、独自の報道を行えば非合法なニュースサイトとみなされることになった。
実はここ2年ほど、政府系メディアや地方政府のメディア管理局を中心に、新しいニュースサイト作りが活発化していた。省ごとにそれぞれ政府系ニュースサイトを立ち上げたという報道とほぼ同時にこの通達が出たことを考えると、当局初から「民営化」しつつあった報道や評論を引き締めることを目論んでいたといえる。
これらのポータルサイトの一つで編集者を務める友人に尋ねたところ、「(すぐに閉鎖ということはないが)多少は影響を受けるだろう。ぼくが担当しているページでも、どんなふうに展開していくべきか、様子を見ているところだ」と言っていた。
つまり、今後中国のニュース報道、あるいは論評は政府が許す範囲のものが増えていくことになる。これは中国報道事情にとって新たな局面を迎える。報道の自由と同時にそれについて意見を述べる表現の自由が大きく制約されることになる。
ただ、その兆しはあった。実はこの本に描かれる著者、顔伯鈞氏が逃亡に至った理由こそ、多少なりとも表現や報道の自由に関心のある人たちが政府の動きを嗅ぎとるきっかけになった事件だった。
それは「孫志剛」事件から始まった
顔氏は中国の法律知識普及活動を行う「公盟」のメンバーである。公盟とは著名な人権弁護士らが中心になり、公共の利益を求め、理性的な公民社会づくりをめざす、法律知識の普及を目的としたNGOだ。
設立のきっかけは、2003年に広州市で起きた、ある若者の獄中死。亡くなった若者の名前を取って「孫志剛」事件として知られるが、当時経済成長に向けて大卒者を増やそうと大学改革が進むさなかに、地方大学出身者が大都会で拘束されたまま死んだ事件だ。
この事件で初めてメディアがそれまでご法度だった司法の闇に初めて斬り込んで報道し、その結果、死因が留置所内での司法担当者らによる暴行だったことが明らかになる。関係者たちには激しい社会の怒りの声にさらされ、死刑を含む厳しい裁きが下った。
だが、返す刀でメンツをつぶされた現地当局者は報道の先頭に立ったメディアに激しい報復を行い、報道の先頭に立ったジャーナリストたちも疑獄事件に巻き込まれたことは、拙著『中国メディア戦争』でも触れた。
公盟の創設メンバーだった、弁護士の滕彪氏や法学者の許志永氏らはこの時、亡くなった孫氏拘束の理由とされた、他地域出身者の強制送還収容所制度の見直しを全人代(国会に相当)に提案。この提案は当時の温家宝・首相のトップ判断により受け入れられ、収容所は廃止されることになった。
そして、彼らは同年、中央電視台と中国司法部が選んだ「十大法治人物」に選出された。
「法治人物」から一転、お尋ね者に
しかし、法律をタテに公民の権利を擁護する活動は当然のことながら、当局に対立的な立場をとると見なされやすい。公盟に集うメンバーは法律関係者や知識人が多く、この国の法律が置かれた社会事情、そしてその解釈がいかに微妙な政治判断を呼ぶかを知り尽くしていることもあって、実際に駆けつけた社会事件での対応や判断が、逆に民主派関係者から「当局寄りだ」「日和った」「慎重過ぎる」と激しい非難を浴びたこともある。
それほどまでにぎりぎりの温和な「現体制下における法律意識の普及」を目指した公盟だったが、2011年に中国の飛び火した「中東ジャスミン革命」騒ぎをきっかけに、その他のジャーナリストや民主活動家らとともに激しい弾圧を受けた。
その際激しい拷問を受けた滕彪氏は2012年に香港の大学で客員研究員として招かれたのち、アメリカに脱出。その後、中国国内での弁護士資格を剥奪された。許志永氏に至っては2013年に拘束され、2014年に懲役4年の判決を受け、この結果公盟は壊滅的となった。
許氏の実刑判決、そして彼らとともに人権弁護士として社会の信頼を集めていた浦志強氏の有罪判決(2014年逮捕、2015年実刑判決、2016年弁護士資格剥奪)は、経済成長とともに社会が前進していくものと多少なりとも信じていた人たちに深刻な打撃をもたらした。中国の言論や表現の自由、そして権利意識、さらには法治における歴史に残る事件といえる。
この本の著者、顔氏はそんな許氏拘束直前の不穏なムードを嗅ぎ取り、身の危険を感じて妻子を北京に残したまま、身を隠す。この本はその2013年4月から6月、その後1ヶ月の拘束のあと再び、ミャンマーを抜けてタイにたどり着き、直後にこの本の出版のきっかけとなった、訳者の安田峰俊氏と知り合うまでの2015年2月の体験を綴ったものだ。
最初に北京から天津に向かった時、それがまさか2年に渡るものととなり、さらには亡命劇にまで発展するとはご本人も予想していなかったに違いない。