「大きな政府」か「小さな政府」かは、経済の問題というよりも、票集めのための政治家のモットーと化している観がある。スリム化をめざしても公共事業にも橋や道路のメンテナンスのように避けられないものがあり、政府支出にも民主党(当時)の事業仕分けで判明したように、削減できそうに見えてそうでないものがある。ならば「適正な(規模の)政府」とは何かが問題になるが、そう問いづらくなったのは景気対策が政府の仕事と公認されてから、つまりJ・M・ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)が登場してからである。
『一般理論』は(とりわけ労働市場の)不均衡状態がいつまでも続くことがありうるのかを解明しようと試みた難解な理論書だが、著者であるケインズがその内容を「景気の底では財政赤字で資金調達し公共事業を講じて失業対策とすべし」と分かりやすく要約すると、その後の政治には現在に至るまで「景気対策、是か非か」が欠かせないものとなり、経済学者もケインジアンと自由市場主義者の両陣営に分かれた。
けれども『一般理論』出現以前の1931年、ケインズと抽象理論レベルで徹底的に対峙した人がいる。それが後に『隷従への道』(1944)で反社会主義の論陣を張り、「ケインズ主義は社会主義への一里塚」と説いて、経済的自由主義の中心人物とみなされるようになるF・A・ハイエクだ。
ケインズにもハイエクにも著名な伝記があるが、本書がクローズアップするのはそれぞれの来歴よりも、その周辺にまで及ぶ対立である。学界から政界、ロンドンからアメリカまで様々な場所で繰り返される抗争が、西部劇さながらに詳述され、手に汗握る筋立てとなっている。
ケインズの前著『貨幣論』(1930)に対するハイエクの超刺激的な批判書評は、専門的な観点からも興味深い。ケインズはGDPのレベルで集計を行なうため、中央銀行による金融緩和(金利引き下げ)で一般物価水準が上がるとしか言わない。一方、金融緩和は、ハイエクからすれば一部の投資家が、設備投資を追加して生産過程を長期化させたものの、融資が終われば遊休設備を抱えて倒産の憂き目に遭うのを促す引きがねとなる。
つまりハイエクは「社会科学において集計は可能か」という方法論上の急所をつく批判を行ったのだが、本書はそうした専門的な知見に深入りはしない。ケインズが反論で「支離滅裂」という罵倒を投げ返したこと、その後二人が週に何通もの私信で用語の定義を確認し合ったこと、さらに書評の注文そのものがケンブリッジ大 VS ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)という大学間の対抗意識の中でLSE側のL・ロビンズによって仕掛けられたものだったこと等のエピソードが続く。ハイエクはロビンズの刺客だったのだ。
これにはケインズも負けじと反論の代役にイタリアからの半亡命者で天才肌のP・スラッファを立て、子分たち「ケンブリッジ・サーカス」とLSEの若手が互いのゼミに乗り込んだり、抗争は拡大する。しかしケインズが『一般理論』出版で名声を高めると、ハイエク周辺の若手、J・R・ヒックスやA・ラーナー、N・カルドアがケインズ側に寝返り、ハイエクを面罵したりもする。この辺りは経済学説史上のエピソードというより人間(性が疑われる)ドラマとして、興味は尽きない。
さらにJ・ロビンソンがR・カーンの愛人だったとか、ハイエクが元カノとヨリを戻すために離婚のしやすい米アーカンソー州に職を求めたとか、第二次大戦中にLSEがロンドンを離れケンブリッジに間借りした際、独空軍の落としてくる焼夷弾をはたき落とすためにケインズとハイエクが二人して屋根に上り、その頃から和解するようになったとか、ふんだんにゴシップが鏤められている。
吹いてくる風になびく論者は日本にも多数存在するが、ケインズとハイエクの両者だけは、裏切られようと定点のように立ち位置を変えなかった。それは彼らの経済思想がデータや理屈をいじくる「賢い」だけの学者のとは異なり、人生の深い確信に根ざすものだったからだろう。彼らが距離を保ったまま和解する様は感動的だ。ハイエクは半世紀近く長生きし、ソ連没落により名声を回復して亡くなった。ところがリーマンショックが勃発、いまだ勝者はどちらと決してはいない。
(『波』2012年12月号より転載、経済学者)