岡本太郎の文章は、読んでいるとまるで彼自身の絵画作品を見ているような気分にさせられる。岡本太郎は、絵の具をたっぷり含ませた絵筆を、カンバスの表面に勢い良く滑り踊らせるように文字を書く人だ。目で見たもの、耳で聞いた音、手で触れたり感じたりしたものが色を帯びて、文字の並ぶ紙の上でへこんだり膨らんだり歪んだり様々な形をなしている。そして、そんな文章に導かれる読者の目の前で、太郎は正面に立ちはだかる壁を倒し、柵を乗り越え、道を逸れてどんどん前へと歩みを進めて行く。彼の眼差しを操作する意志と興味は豪快でありながらも注意深い。大都市であろうと古の都であろうと未開地であろうと、視界に止まるものを余さず自らの感性の糧として吸収してしまう、強力なスポンジのような意識を持った太郎の、世界を巡る足取りに惑いや躊躇など一切無い。
勿論、岡本太郎の印象的な人となりや、その作品の先入観を拭えないにしても、この人の文による表現にはそれとはまた別次元の、特異なエネルギーが込められている。甘美も辛辣も興奮も冷静も丸裸の実直な思いは全て旅の記録としての彩りとなる、大切な画材のようなものなのだ。
インドくんだりまで出向いて行って、大芸術家を待遇するプログラムとしてモダンアートのコレクションを見せられてがっかりする太郎は、その土地で生きる人間の有様に対しては強烈に反応する。極限の貧困状態の中で、黙って死んだように動かない人間や、牛の糞にまみれて寝そべる男の姿に動揺し、沐浴場に溢れる様々な人々に圧倒される。老若男女、痩せた子供に手の指が腐って全て欠け落ちている男、そして川辺で焼かれる死体。恐ろしく嫌な国であり、惨いのに、何かが正しい。私も今まで自分が訪れた場所で何度かその「正しさ」に似た感覚を覚えた事があるが、人間という生き物の、何ものにも包み隠されないありのままの生き様に遭遇した時、そこで人はおそらく自分がしている旅の新しい質感を得るのだろう。
岡本太郎は旅をしながら遠慮も容赦もなくとことん感慨に耽り、感動し、混乱する。そういった多様な心境は、目の前に広がる情景を捉えようとしているだけの文からも、率直に読者に届けられる。
そんな旅の記録と一緒にこの本の中で度々繰り返されるのは、太郎の抱く、美術や芸術の解釈のされ方への疑念、パターン化された合理的で人間主義的な美術史への懐疑心だ。芸術というものがあたかも文明の一筋の流れに従って、枠付けされているその感覚に苛立を感じている太郎は、行く先々で出会う数々の造形に、狭い固定観念に捕われない、直接に身にこたえてくるものを見究めたいのだと訴える。そして、アジアの石窟や騎馬民族文化、大好きなメキシコや縄文文化の中に、彼にとっての芸術の真意と言えるべきものを見つけ出していく。
「芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならない」という岡本太郎自身が唱える三原則についてもこの著書の中で触れてはいるが、彼はそこに無くてはならない要素として、宇宙と人間とを繋ぐ呪術性に固執する。
女神や裸像、霊獣や精霊、動物などが彫り出されたその大地の呪力と結びついたエローラのヒンズー窟では太郎は宇宙観を感じ取る。彼の目は作品の完成度やディテールへの配慮、そして総体的なクオリティなどは注視しない。激しい生命力と生きる思念が視覚を通じてどれだけ響いてくるかどうか、それが何よりも肝心なのである。
スキタイなどの騎馬民族の美術に表現されている、挑み合う動物のモティーフからは、地球の上を定住地を持たずに移動しながら生きる人間達の、力強い生き様に心を動かされる。彼らは呪術と神秘に力を委ね、定住の安堵にも頼らず、そして自らの力のみに奢らない。そこに潜む超自然への敬愛の迫力に、かつては全ての芸術が超自然との交流の必然性から生まれて来たはずだと振り返り、現代人がそれを単なる〝美術品〟としか見られないことを残念に思っている。
岡本太郎は品行方正で全うな世界と、そういった場所で理路整然と〝芸術〟にカテゴライズされるようなものには魅力を感じないが、芸術作品としての可能性の自覚も無いまま、混沌とした環境の中で偶発的に生み出されたものや、人間が築いた複雑な歴史の結果として発生してしまった軌跡に、激しく胸を高鳴らせるのである。
南スペインのコルドバでは、その土地を支配したイスラムとキリスト教の混ざり具合に彼の好奇心と興味が沸き上がり、血なまぐささや情熱、そしてイスラム文化の逸脱した高貴性や洗練さの混じり合いに酔いしれ、酔いしれ過ぎて、土地の三人の美女たちと得意のフラメンコダンスを踊った記憶さえ飛んでしまうほどである(私は岡本太郎が実はフラメンコが得意だったということに驚いた)。
そしてバルセロナではサグラダ・ファミリアの想像を絶する迫力に圧倒されながらも、それまで写真などで見て知っていた奇抜なイメージと、現物を見た時に気がついた俗っぽさとのマッチングが、逆に神聖感を高めているのではないかという解釈をするのが面白い。太郎はガウディという人物がいかに後の研究者や追随者によってその存在を天才か教祖のように崇め奉られ、写真家の意図によってその作品のおどろおどろしさばかりが定着されてしまっているかという点を指摘しているが、彼もバルセロナを実際に訪れるまでは、恐らく媒体経由の、至高の奇人天才建築家と独特を極める作品というイメージを抱いていたのだろう。ガウディの思いがけない俗っぽさの側面にはかなり意表を突かれたようだ。
何はともあれ、太郎はいつ完成するかもしれぬサグラダ・ファミリアを目の当たりにして、芸術にとっての完成は一種の妥協でしかなく、芸術は実のところすべて未完である、という考えに行き着く。未完成は完成よりもずっと情感的であり、そもそも人間の存在自体がそうであるからなのだと。そして最後に、あの何の便宜性も合理性も無く、空間を貫くように建てられた巨大な建築物が延々と作り続けられているその状態を、「宇宙的ひろがりをもって燃えあがっている。天空に向って、無限の夢をひらきながら昇って行く」と表現する。スペインの旅もまた、異国の地で巡り会う表現者達の魂の痕跡に、自分の場所を離れて遥々そこまでやってきた岡本太郎という人間の、命と創造へのただならぬ追求と執念が映し出されているような記録であった。
メキシコへ旅をした時の太郎の歓喜もまた、素直でパワフルで微笑ましい。「貧乏だが決してみじめではない。人間的人間。いわば、みんなが芸術家なのだ」と、浮かれ調子で極上の賛辞を口にしてしまうほど、岡本太郎にとってのメキシコは特別な場所なのだ。自らの作品の写真をスライドでメキシコ人達に映して見せた時の反応についてのエピソードも楽しいが、その後の太郎が彼らに対して取ったリアクションも素晴らしい。世界のどんな場所であってもその土地の人々を笑わせるユーモアを駆使できる人というのは中々いるものではない。それは太郎の旅先でのサーヴィス精神とも言えるが、驚くべき外交能力でもある。
時は1967年、日本が高度成長期でみるみるその経済力を高めている中で、メキシコ人の隣国アメリカには諂わない姿勢が自然過ぎて感動する太郎。「日本人とは違う」とつくづく思うのであるが、この章に留まらず別の記述の中でも何度か自分の国である日本を客観的に分析した文章も記している。ネパールの五重塔と日本の五重塔についての考察など、こういうことをはっきりと書いてくれる人がいた事に、私のような強い郷土愛を持つわけでもなく、自らのアイデンティティの曖昧な人間は、読みながらついホッとしてしまうのだった。
ところで、私はこの文章を、フィレンツェでルネサンス美術を紹介する番組の撮影中に綴っている。本文の中でも再三書かれているが、太郎は私が学生時代から嗜好しつづけているギリシャ・ローマからルネサンスに繋がる人間中心主義的な美術や芸術の系譜にはシンパシーを持っていない。だから、終章の冒頭に書かれている、「眼は存在が宇宙と合体する穴だ。その穴から宇宙を存在のなかにとけ込ます」という決定的な定義は、歴史の中でも主流にはなれなかった、先進文明から外れた文化の創作物に当てられているものなのである。
だが、私はフィレンツェの美術館に並ぶ様々な表現者達の描く様々な世界を見つめながら、形式や宗教という縛りの中でも、たとえ美術史という系譜に整然と収められてはいても、そこには彼らなりのボーダーレスな宇宙が十分展開されていると感じている。もし太郎が生きていたら、是非彼がうんざりしている古代ギリシャ・ローマやルネサンスの美術品が並ぶ美術館や、古代ローマの遺跡にお連れして、唾を飛ばし合いながら好き放題な事を語れたらどんなに楽しいだろう、などという妄想を抱いてしまうのだった。
私に限らず、この本を読み終えた読者は、きっといつの間にか自分が岡本太郎の隣を歩きながら、一緒に長い旅をしてきたような心地になるだろう。そして世界各地の、命の躍動を感じさせる芸術に対する太郎の興奮に満ちた言葉が、情熱の込められた絵筆で描かれた絵画や造形物に姿を変えて、きっといつまでも頭の中に残り続けることだろう。
(平成28年6月、漫画家)