イラクとシリアに跨るISの支配地域の内情がどの様なものであるのかは多くの謎に包まれている。メディアなどで語られる情報は反IS側の陣営によるプロパガンダ的な要素を含んだ物が多く、その内容のどこまでが真実であるのか釈然としない点も多い。IS側もこれまでジャーナリストを支配地域に入れる事を拒んできた。多くのジャーナリストがIS の戦闘員に拘束され殺されている。本書はそんな状況の中で西側陣営のジャーナリストとして初めてISの指導者であるバクダーディーから正式に許可を得てIS支配地域を取材にしたドイツ人ジャーナリスト、トーデンヘーファーのルポタージュだ。
ジャーナリストとしての著者の立ち位置は明確だ。事が起こった際には、批判的精神を持ちつつ当事者双方の意見に耳を傾けるというものだ。当たり前なように聞こえるがこれは本当に難しい事だろう。日本の事を例にとって考えればわかるだろう。中国や北朝鮮などの国々と歴史認識や領土問題で揉めている最中に、日本国内で中国や北朝鮮の考えを大々的に広めようとすれば、一部の人々から「裏切り者」「敵の理解者」として激しい攻撃にあうのは火を見るよりも明らかである。アサドやアルカイダの幹部に会い、その考えを西側諸国に伝えようとするトーデンヘーファーは母国ドイツで「独裁者の友」「アルカイダのスポークスマン」などと揶揄され脅迫メールなども多数送られてきているようだ。
著者のこのスタンスは裁判官として働いていた時に培われたという。弁護人の意見と検察の意見を聞くたびに気持ちが揺れる。真実はいったいどちらであるのか。判決を下す際にも、常に自分の判決が正しい物なのか自問し続けたという。著者は「善の枢軸」は「悪の枢軸」とは対話しないという、西側諸国のスタンスを批判する。
トーデンヘーファーが新たに疑問に思い真実を知りたいと思った対象がISだった。シーア派のジェノサイドを公言し、自分たちの考えに与しない者の斬首を行う彼らの残虐さはアルカイダすら穏健派に見えてしまうほどだ。彼らはどんな思想を持っているのだろうか。また奴隷制を復活させるなど、人類の進歩を真っ向から否定するような行動をとるISになぜ多くの若者が引き寄せられるのか。そしてISの支配地域の住民はどのような暮らしを強いられているのか。著者はSNSを通じて生粋のドイツ人IS戦闘員アブー・カターダことクリスティアン・Eと接触を重ね、カリフ国事務局が発行した安全保障書を手に入れ息子と友人と共にISへと旅立つ。
ISの戦闘員は複数の言語を喋る事ができる洗練された若者たちだったという。彼らは当初、ドイツ人3人に好意的に接していた。また彼らの多くが西側の武器を所持していたという。これらの武器は西側が支援する自由シリア軍やクルド人武装組織から奪い取った戦利品であった。そこまではいいのだが、驚くことにこれらの武器で使用する銃弾や砲弾は自由シリア軍やクルド人武装組織からISが買っているのだという。反IS派の組織の腐敗ぶりが窺える。ISの戦闘員も西側が武器弾薬を支援するほどISの武装が強化されると語るほどだ。
著者は出国前にアブー・カターダと話し合い、いくつかの点を除きIS国内を自由に取材することが出来ると保障されていた。しかし、現地に来てみるとの覆面をした鷲鼻の運転手に多くの制約を課せられることになる。ロンドンの下町特有の訛りのある英語を話すイギリス人と思われる覆面男は常に著者たちに隠すことなく敵意をむき出しにする。運転手というポジションとは裏腹に明らかに著者たちの世話係の中で一番強い権限を持っているようだ。特有の訛りのある口調、特徴的な鷲鼻、半開きの垂れた眼、この運転手は明らかにジハーディスト・ジョンにうり二つだ。著者たちに緊張が走る。だが、多くの規制をかけられつつも、度重なる口論の結果、イラクの街モースルでは比較的自由な取材を行う許可が下りる。
ISは支配地域で出版社や病院を経営し、警察や裁判所も運営している。彼が本当にIS独自の解釈を行ったシャーリアに基づく国造りをしようとしている姿が克明に取材されている。ちなみに、モースルの裁判所では驚く話を聞くことになる。なんとIS以前の裁判官は全て殺されたというのだ。法を作る事が出来るのはアッラーのみであり、その権限を犯して作られた近代法を行使していた裁判官たちは殺されて当然という理屈らしい。ISの裁判所ではイスラーム教を学んだものがシャーリアに基づいて裁判をしているという。ISの戦闘員たちは同じ理論に基づき、民衆に選ばれた代表が立法権を持つ民主主義を完全に否定する。
ISの支配地域ではジズヤという人頭税を払えば自由に生活できるという。アブー・カターダはこれを慈悲ととらえているようだ。その一方でシーア派はイスラームの教義を誤って解釈している背教者であり、正しい宗派に改宗するか殺されるかしか道はないという。「もし世界中の1億5千万人のシーア派が改宗を拒んだら全員殺されるということですか?」との著者の問いにアブー・カターダは「その通り。これまでのように……」と答える。
このように考えるISの戦闘員たちに著者は何度も繰り返す。コーランのどこに、そのような事が書いてあるのかと。コーランは常に慈愛と寛容に満ちているではないかと。しかし議論は平行線をたどり、次第に著者たち一行とIS戦闘員たちの関係は険悪で敵対的なものになっていく。
本書末の「イスラム国」のカリフと外国戦闘員への公開書簡と題された第九章は必読だ。ブッシュやビレアの犯した戦争犯罪を痛烈に批判しながらも、それを超えかねない勢いで虐殺を行うISを厳しく追及することにより、戦争というものの本質を見事なまでに炙り出している。またイスラーム教は慈愛に満ちた偉大な宗教であり、1400年前にこのような思想を広めようとしたムハンマドを偉大な革命家であり、社会改革者であると断言する。そして、もしムハンマドが現代に生きていれば、1400年前に書かれた思想を現代に無理やり当てはめようとしないだろうという。それのみではなくイスラーム教は世界文化であり、この偉大な宗教の名をかたりながら、反イスラーム的な行動を繰り返すテロリスト達からイスラームを守らなければならないと主張する。
本当のイスラームは決してテロを生む土壌にはならないはずだ。著者はコーランの「誰かが一人を殺せば、それは人類全体を殺したようなものである。」という言葉を示し、多くの虐殺をおこなったISこそが反イスラームだと結論づける。「ISこそが反イスラーム」まさにこの言葉こそISの真実であろう。