脳外科医のやり甲斐と厳しさ、イギリスの医療制度のひどさ、マーシュ先生の清々しい生きざま、そして、こういった内容が流れるように綴られる美しい文章。読みながら、さまざまな感慨を込めた溜め息をなんどもついた。素晴らしい本だ。
タイトルどおり、イギリスの有名脳外科医・マーシュ先生のエッセイ集である。25のエピソード、それぞれにマーシュ先生の思い出がつまっている。タイトルの『告白』というほど重苦しい本ではないが、明るく語ることができるような話ばかりでもない。包み隠すことなく語られているが、赤裸々というイメージでもない。淡々と、そして正直に、マーシュ先生の内面が吐露されていく。
つらい思い出が多くとも、マーシュ先生は脳外科の仕事を心から愛しておられることがよくわかる。しかし、脳外科医へ至る道筋は紆余曲折に満ちていた。高名な人権派弁護士の父とナチス・ドイツから逃れてきたドイツ人の母との間に生まれたマーシュ少年は、当然のように有名パブリックスクールに進む。しかし、その卒業後2年間は学業を休み、うち一年は西アフリカの僻地で英語を教えるボランティアなどをした。
その後、オックスフォード大学に入学し、政治学・哲学・経済学を学ぶが、失恋して絶望感にさいなまれたマーシュ先生は、学業を放り出し、炭鉱町の病院でポーターとして働き始める。自分の不幸を理解し、父親に儀式的な反抗をするための半年間を終え、『自分の居場所に戻りたく』、ようやく外科医を志すことになる。もちろん、そこにいたるには、病院で下働きをしながら見聞きした経験が大きかった。
いい時代だった。科学の基礎さえ学んでいなかった若者を入学させてくれる医学部があったのだから。卒後一年半のマーシュ先生は、『すでに医療を一生の仕事にすることに失望と幻滅を覚えていた』が、そんな時、初めて見学した脳神経外科手術に一目惚れし、その瞬間、脳外科医になることを決断する。長くかかったが、きっとそれが運命だったのだろう。
はっきりと書かれてはいないが、経歴からみると、手先の器用さなど、脳外科医にとても適性があったようだ。しかし、若かりしころは傲慢であったと振り返る。ある日、偶然、自分のミスにより、術後に意識が戻らないまま7年たった患者を目撃し、衝撃をうける。
わたしはよい外科医でありたいとおもっているが、どう考えても偉大なる外科医ではない。わたしが覚えているのは成功-成功したと自分では思っている-例ではなく、失敗例だからだ。
謙虚な言葉が、この本の内容をよくあらわしている。もちろん、うまくいった手術のことも紹介されている。けれど、そんなとき、患者さんは医師である自分に対して必要以上に感謝しているのではないか、と照れてしまう。しかし、いざ自分が患者になったときには、必要以上に主治医に感謝する。さすがはマーシュ先生だ。
いろいろな矛盾を堪え忍ぶマーシュ先生であるが、怒るときは激しく怒る。国が設定した馬鹿げたルールに、杓子定規で患者のことを顧みない病院の運営に、そして、やる気や能力のない若手医師たちに。信用して任せた若手医師が単純なミスから患者に後遺症を残した日には抑えきれずに、『今後はいっさい若手の指導などするものか』、『将来のことななんぞ、知ったものか』とまで、言い放つ。
特筆すべきは『The English Surgeon(日本未公開だが、すっきり「英国の医師」と訳せばいいのだろうか)』というドキュメンタリー映画にもなったウクライナでの医療活動だ。1992年、ソビエト連邦が崩壊したすぐ後に、ちょっとしたきっかけでウクライナのキエフにある脳外科専門病院を訪れる。巨大ではあるが、中身はほぼからっぽの病院で、意欲的であるがために旧弊なウクライナ医学界から異端視されていたイーゴリと友人になる。以後、20年以上にわたりボランティアとしてイーゴリに協力し、キエフでの脳外科医療を支援することになる。
ウクライナの病院の環境や設備が劣悪であることがくり返し書かれている。実際、The English Surgeonを見れば、想像を上回るひどさに驚いてしまう。その病院へ自らの手術器具を持ち込み、貧しい患者からの診療費用をとることもなく、診察や困難な手術をおこなう。貧困と乏しい医療資源のため、症状がとんでもなく悪化してから、見たこともない大きさの脳腫瘍をかかえて受診する患者も多い。
そのうちの一人が11歳の可愛らしい少女ターニャだった。なんとかしようとロンドンの病院に招き、手術をおこなった。良性腫瘍であったが、あまりに巨大であったためにうまくいかず、合併症-マーシュ先生によると『物事がうまくいかなかったときのことをすべてひっくるめて指す医学界の婉曲語法』だ-に苦しみながら1年半後に亡くなった。手術すべきではなかったと後悔するマーシュ先生に、ターニャの母親からクリスマスカードが送られてくる。
窓のないオフィスのデスクにそのカードを飾り、ターニャのことを、そしてわたしが外科医として野心を燃やした結果、手術を失敗させたことを痛恨として思い起こすべく、そのまま数週間、飾り続けた。
The English Surgeonは、マーシュ先生が、ウクライナの田舎町にあるターニャの墓参りに行くシーンで締めくくられている。
うっかりと見落とした医療ミスで訴訟に持ち込まれた時、同僚にこう打ち明ける。
わたしはね、患者さんとご家族に正直に言ったんだ。わたしはおそろしいあやまちを犯しました。どうぞ、わたしを訴えてください、と。
マーシュ先生が、居そうで居ない、希にみる正直ベースの先生であることがよくわかる。そのことこそが、このエッセイ集をこれまでにありそうでなかった読み応えある本にしている最大の理由だ。
医師は、医学の「アートとサイエンス」について語るのが好きだ。しかし、医学を「術(アート)」と「科学(サイエンス)」に分けて考えるのはずいぶん傲慢ではなかろうか。わたし自身は、医学とはむしろもっと実践的な職人技であり、長い歳月をかけて習得するものだと思っている。
飄々としたマーシュ先生の映像を見ても、失礼ながら、切れる脳外科医という感じは全くしない。それよりも、数多くの患者を相手にしつつ学びながら、長い歳月の習練に堪え忍んでこられた、心技ともにそなわった名職人、いわば究極の脳外科職人なのである。
内容もすばらしいが、文章もすばらしい。手術の描写など、まるで名画をていねいに解説するがごとくなめらかに生き生きと綴られている。医学のことなどまったく知らなくても、その脳外科手術のことを思い浮かべることができるはずだ。訳文も完璧で、その語り口は映画で見るマーシュ先生のイメージそのままである。心に残る一冊を読ませてもらえたことに感謝したい気持ちでいっぱいだ。マーシュ先生、ほんとうにありがとう。
失敗から学ぶ、という意味ではこの本もすばらしくよろしい。
あたりまえのことをあたりまえに行うことの難しさを教えてくれる。