1989年、日本人がやり投げで「幻の世界記録」である87メートル68センチを投げたことを覚えている人はいるだろうか。「疑惑の再計測」の結果、87メートル60センチに記録は改められたが、当時の世界記録に6センチ差にせまる大記録であった。その後はWGP(ワールドグランプリ)シリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位の成績を収めた。
男の名は溝口和洋。世界記録更新も期待され、人気、体力も絶頂にありながら、翌シーズン以降に忽然と姿を消す。
やり投げでは小柄な180センチほどの身長で溝口はなぜ世界と互して戦えたのか。そして、突然表舞台から去ってしまったのか。本書は、学生時代に円盤投げの選手でもあった著者の18年に及ぶ取材の集大成だ。
高校のインターハイにはアフロパーマで出場。一日二箱はタバコをふかし、酒も毎晩ボトル一本は軽い。ナンパした女性と朝方まで過ごし、二日酔いで日本選手権に出て優勝。陸上投擲界で初めて、全国テレビCMに出演。根っからのマスコミ嫌いで、気に入らない新聞記者をグラウンドで見つけると追い回す。
溝口を語る上では数々の無頼な伝説が欠かせない。型破りなスタイルに陸上関係者は眉をひそめたが、溝口は逆に闘争心をかき立てられたと述懐する。女性と夜をともにした後に日本選手権に出たことも溝口にとってはやり投げを極める一環に位置づける。
これは何か不意のことが試合前に起こっても、対処できるようにと考えて、意図的にしていたことだ。
こんなことは誰にも理解してもらえないが、私のやり投げやそのトレーニング自体、誰にも理解してもらえないので、他人かどうこう言われようが、全く気にしない。
屁理屈にも聞こえるが、本書を読むと、溝口が生活の全てをやり投げに捧げていたことがわかる。箸の上げ下げから性行為の動きまでをやり投げに応用できないかを考え続けたというのは大げさではないだろう。
体格で圧倒的に不利な日本人が投擲種目で、成績を残すには海外勢と同じことをやっていても、これまでの延長戦の練習でも絶対に勝てない。常識を徹底的に疑い、自ら試し、納得するしかない。象徴的なのは溝口の次の言葉だ。
「やり投げ」と考えるだけで、例えばこれまでのトップ選手のフォームが脳に焼きついてしまっているので、偏見から抜けきらない。そこで私が考えたのは、「全長二・六m、重さ八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ということだ。
いかにやりを遠くに飛ばすことだけを考え、トレーニングと技術を解体し、再構築する作業は無頼なイメージからは考えられないほど緻密だ。
溝口は身体的不利を補うために、ウェイトトレーニングの徹底に行き着く。パワーを増やそうとしても身長は伸びない以上、筋肉量を増やすわけだが、このトレーニングが想像を絶する。
例えば十二時間ぶっとおしでトレーニングした後、二、三時間休んで、さらに十二時間練習することもあった。
本書には詳しいトレーニングメニューも書いているのだが、例えば、冬期は約200キログラムのバーベルをかついだスクワットを10回×30セットで一日が終わる日もわるという。総重量60トン、午後から始めても夜の10時頃までかかるというから圧巻だ。ウェイトのトレーニングは一日100トンをこえる日もあったというからもはや言葉も出ない。
他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。
壊れるかもしれない。壊れてもいい。世界記録を投げられれば。悲壮な覚悟を持ちトレーニングを積む溝口だが、「全身やり投げ男」ともいえる極端な姿勢はどこかで破綻が訪れる。「長く」よりも「太く」生きることを選んだ溝口だが右肩が悲鳴を上げる。往年の輝きは取り戻せず、怪我から6年経った96年に34歳で引退する。
世界トップレベルの実績を残しながらも、引退後の人生が陸上と距離があったのも溝口が歴史に埋もれている一因だろう。中京大学で後の五輪金メダリストの室伏広治などを指導しながらも、生活の糧はスロット。現在は実家に戻り家業の農業を継いでいる。
とはいえ、溝口らしさは健在だ。繊細な作業が必要なトルコキキョウの栽培に成功するが、農業に取り組んでも常識を疑い、嗤う姿は変わらない。自分のやるべきことを、トルコキキョウを作ることではなく、そういう名のついた花を毎年、できるだけたくさん安定供給することと位置づける。やり投げを「やり投げをやっていたわけではなく、細長い物体をできるだけ遠くに投げる競技をしていた」とかつて語った姿勢と重なる。
もはや溝口が幻の世界記録を投げたことを知る人は彼の周囲でも少なくなっている。だが、彼が記録を残すために、想像を絶するトレーニングを自らに課す過程は一読の価値がある。日本人が欧米人とやり投げで競い合うのは土台無理な話。無理な話ならば諦めるのか。無理な話ならば、こちらも無理するしかない。常識なんてくそ食らえ。世界のトップクラスで異彩を放った男の生き様は誰もが真似できるものではない。だが、無力な私にすら、日々の生活で最初から諦めずに何か新しく挑戦してみようかと思わせるほど強烈な読後感がある。