ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)は、おそらく世界で最も知名度のある詩人であり劇作家だろう。『マクベス』や『ハムレット』などの名作は世界各国でローカライズされ読み継がれ、今でも頻繁にオペラとなり舞台となり上演を続けている。
シェイクスピアの演目は20世紀後半まで英国ロイヤル・シェイクスピア劇団が最も権威ある公演と考えられてきた。しかし時代は変わり2006年、蜷川幸雄演出の悲劇『タイタス・アンドロニカス』が同劇場で上演、大絶賛を浴びた。日本で創られたシェイクスピア劇は英国をはじめ世界にも通用すると証明されたが、同時に、シェイクスピア作品は世界各国の文化にまで浸透していることを表しているかもしれない。
本書はシェイクスピアが生きた動乱の時代を踏まえ、彼の人生と作風、そしてシェイクスピア・マジックと呼ばれる作品トリックを解明していく。
著者は東京大学総合文化研究科教授、かつシェイクスピアを専門に研究。『ハムレットは太っていた!』ではサントリー学芸賞を受賞している。文体は魅力的な講義のようで、広大なシェイクスピアの世界を覗いてみたい人にとってはうってつけのガイドになっている。
通説でいうと、シェイクスピアの父は皮手袋商人であり市会議員だ。母は紳士(ジェントルマン)の娘で裕福な家庭環境に育つ。シェイクスピアは当時18歳で26歳の恋人アン・ハサウェイと結婚した(『プラダを着た悪魔』の女優アン・ハサウェイは、同姓同名シェイクスピアの妻アン・ハサウェイにちなむ)。その後、ロンドンへ進出し演劇の世界に身を置くようになり、俳優として活動するかたわら脚本を書き、多くの戯曲を執筆していった。通説と前置きしたのは、ロンドンに進出する約10年の期間は公的記録が残っておらず、シェイクスピア本人が全く別人だったという説もあるためだ。
本書ではシェイクスピア本人を知らなくとも充分に楽しめる構成だ。たとえば舞台については、シェイクスピアが活躍した時代の劇場に幕は無かった。テムズ川沿いの円筒形劇場のグローブ座やシアター座なども基本的に観客は立ち見で、平土間に客席が無い状態、すなわち張り出しの舞台だった。今でいう西洋近代演劇と呼ばれるスタイルとなり、劇場に幕が導入されたのは1660年以降。そこから舞台背景や照明が投入されていった。偶然にも日本で能舞台を用いた狂言は、これらの張り出しと同様に柱二本で屋根を支える舞台構造であり、シェイクスピアの時代と構成が一致している。
舞台装置がないということは、劇曲で街道のシーンから幕が下がり城のシーンになるといった、いわゆる場面転換が存在しないのだ。なので暗転の必要もない。新古典主義的では写実性を守るため「1日のうちに」、「1つの場所で」、「1つの行為だけ」で完結する劇作上の三一致の法則というのがある。しかしエリザベス朝演劇と呼ばれるシェイクスピアの舞台では、ただ何もない空間をぐるりと回ってもとの場所に戻り、「アーデンの森だ」と役者が言えば場面転換が成立する。ここは狂言でいう「いや、何かといううちに都じゃ」とも置き換えられる。
そのため何もない舞台は、設定次第で部屋にもなれば都への街道にもなりえた。この時代、役者の声は影響力が強く、そこから聴衆は様々な世界をイメージしたはずだ。観客は何もない場所にテーブルや月など、想像力を駆使して思い浮かべたに違いない。「万の心を持つ」とシェイクスピアの作品は称されるが、貴族や平民や紳士など色々な立場が登場するのもさることながら、観客の喜怒哀楽における想像力を味方にして、人間の生きる様を映し出したのかもしれない。
本書ではテレポーテーションやタイムスリップといった劇曲のシェイクスピア・マジックと呼ばれる手法も『ロミオとジュリエット』などを例に解き明かしている。生まれ育った背景であるエリザベス朝文化の歴史にも言及しているので、ページ毎にはなにかしらの知的興奮が伴う。配役と歌舞伎役者との対比などの考察も興味深いが、個人的にはジェントルマンの本来の意味を知れたことが大きな収穫だ。
長きにわたる考察から纏められた一冊なので、シェイクスピアの奥底に流れた思想を少しづつ読み解くには最適な書だ。