2012年9月9日。晴れ渡ったロンドンの朝7時50分ごろ、スコットランド・ヤード(警視庁)に緊急電話が入る。ロンドン西部のモートレイクという街のポートマン通りに死体のようなものがあるという通報だった、電話してきたのは日曜日の朝に教会に向かっている男性で、血も見えるという。
5分後には警察が到着し遺体が確認され、周辺の聞き込みが始まる。電話があった直前、「ドン」という鈍い音が聞こえたという。被害者は頭部がひどく損傷した若い黒人男性で、最初は殴り殺されたのではないか、と思われたが、損傷のひどさとひっきりなしに空を飛ぶ飛行機をみて、空から墜落したのではないかという結論に達する。近くにはヒースロー空港があった。
地元紙はすぐに取材を開始する。スコットランド・ヤードの発表は「密航しようとして、ヒースロー行きの飛行機から墜落した」と説明する。数少ない所持品にはアンゴラ紙幣2枚とボツワナ硬貨1枚があった。空港の離着陸データとこの所持品が決め手となり、この男が密航したのはアンゴラの首都ルアンダ発ヒースロー行きのブリティッシュ・エアウェイズ76便、機体はボーイング777だと推測された。
丸めたティッシュペーパーが耳に詰め込まれていたことから、主脚格納庫に潜んで不法入国を試みたようだ。驚いたことに1947年以降、この方法を試みた者は全世界で96人もおり23人は生きて見つかった。
著者の小倉孝保は当時、毎日新聞のロンドン特派員で、男が墜落した日はちょうどパラリンピックの開会日。その記事が大々的に踊る誌面の片隅に、墜落事故が報じられた。何か引っかかるものを感じた著者は取材を開始する。英国では当時、移民問題が国論を二分していたため、無謀な方法で密入国しようとした男に興味もあった。
似顔絵やDNA検査の結果、歯型なども情報公開されたが身元はわからない。だがポケットの奥から1枚のSIMカードが見つかったことで特定に成功した。
彼の名はジョゼ・マタダ。26歳。モザンビーク出身のハウスキーパーもしくは庭師。
身元の確認はスイスのジュネーブに住むジェシカ・ハントという白人イスラム教徒の女性が行ったという。SIMカードには彼女への通信記録が残されていた。ふたりの関係はわからない。小倉はこつこつと取材を続け、1年後ついにはインタビューに成功する。
ガンビア人の男性と結婚し、幼い子供もいるジェシカは数奇な運命を負っていた。
英国人の父とスイス人の母の間に82年に生まれたジェシカは、家族とともに2歳の頃からサハラ砂漠に渡り、そこからアフリカ中を放浪していたという。両親それぞれも複雑な混血で、放浪中に様々な人と接したため、人種に対する偏見や壁は全く持たなかったという。当たり前のように多言語、多文化の中で幼少期を過ごしていた。
学齢期に達し、放浪生活は落ち着いた。学校はジュネーブ近郊の国際学校で、国連や関連施設に働く世界中の人の子弟が通う学校だった。15歳の時、4歳年上の黒人イスラム教徒のホセインと出会う、彼は金髪白人の少女ジェシカに夢中になる。
ホセインの一族「ババ・ダンプロ」はカメルーンの大富豪だった。出会って2年でふたりは結婚する。ジェシカはこのとき、イスラム教へ改宗した。だが、大富豪一族はジェシカを財産狙いだと決めつけイジめ抜く。最初は味方だった夫も、やがて家族の側につくようになり、彼女を監視する使用人を周りに置くようになった。孤独感を募らせたジェシカの前に、寡黙だが誠実で、裏表なく働く青年庭師があらわれた。それがジョゼ・マタダだった。
二人の距離は急接近する。ジェシカは恋愛関係ではなく弟のような気持だったと最後まで言い張ったが、ジョゼは憧れのマダムが自分を頼りにしてくれることに喜びを感じただろう。夫の暴力に耐えきれず、ジェシカはジョゼを伴って逃亡する。いつかヨーロッパに渡り、二人で自由な生活をおくることを夢見ていた。
だが、ジョゼにはパスポートを取る手段も金もない。生活に困窮したジェシカは実母を頼ってジュネーブに戻る。ジョゼに送金を約束し、いつか呼び寄せると言い残して。
時間は残酷だ。ジェシカは別の恋におち、結婚するという報告がジョゼに入る。焦ったジョゼが取った方法が飛行機の主脚格納庫に入って密入国するという手段だった。地上1万メートル、気温マイナス50℃のなか薄い洋服一枚のジョゼは何を考えていたのか。
ここまでがジェシカの告白である。まるで『チャタレイ婦人の恋人』現代版のような物語だ。悲恋のラブロマンスである。
しかしここからが本当の読みどころとなる。ジョゼ・マタダとは本当はどういう男なのか。彼が望んだことは何なのか。小倉はジョゼの出生地、モザンビークの首都マプトから北東へ約600キロのノバ・マンボーネ村へ向かう。マプトに住む兄から事前の情報を得て、村に一番近い空港まで飛び、そこから悪路を四駆で疾走すること3時間。ノバ・マンボーネ村はトウモロコシ畑に囲まれた長閑な場所だった。
喪服に身を包んだ母親、兄弟姉妹が集まり、ジョゼが墜落死をした真実を聞く。反対に小倉はジョゼがなぜ都会を目指したのか、その謎を解くため生まれてからの話を聞いた。モザンビークには世界にはあまり知られていない大量殺戮、ジェノサイドの歴史があり、ジョゼはその生き残りだった。ナチのユダヤ人大虐殺、ポルポトの大虐殺に続く「第3のホロコースト」と呼ばれるほどの規模だったという。
教育水準も低く、産業も何もない村から家族を養うためには、首都へ出て仕事にありつくしかない。真面目なジョゼは信頼され、大富豪宅の庭師として堅実な道を歩んでいた。ジェシカに会うまでは。それは文明との出会いだったのだろう。
魂の解放を求めた女性と裕福な文明生活を望んだ男が、まるでジグゾーパズルのピースが嵌るように出会ってしまったのが、ジョゼの悲劇だった。
この村の貧しさはインタビューに赴いた小倉ですら想像のつかないものだった。そこに思いの及ばなかったことに現実の厳しさを思い知らされる。
奴隷制度は無くなった。しかし厳然として貧富の差は広がり、生活水準の格差は埋めようもない。一人の女性と出会い一縷の光を見出した男が、最後の手段として飛行機で密航し墜落死したことは事実だ。その理由や彼の思いを知り、せめてジョゼという男のことを覚えていようと思う。
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