新潮社編集部から届いた山吹色のA4封筒を開けると、分厚い紙の束が出てきました。1枚目の紙には、「ブータン、これでいいのだ」の文字と、見慣れたぶどうのマーク。それを見て、じわじわとうれしさが込み上げてきました。
小さなころからよく読んでいたためか、新潮文庫はあこがれでした。2012年に単行本『ブータン、これでいいのだ』が新潮社から出版されて以来、書店で新潮文庫の前を通る度に妙にそわそわし「いつか、ここに私の本も並ぶといいな」と夢見ていました。今回文庫版を出させていただくことになり、またあらためて多くの方に手に取っていただける機会を賜り、心よりうれしく思います。なにより、ブータンという小さく魅力的な国のことを、日本のみなさんにこれだけ知っていただけるようになったことは、大きなよろこびです。
今回文庫になるということで、久しぶりに『ブータン、これでいいのだ』を読み直しました。本が出たばかりのころは、なんだか恥ずかしく、なかなかあらためて自分の書いた本を読み直すことができなかったのですが、もう最初に原稿を書いてから5年近く経つので、さすがに恥ずかしさは薄れ、いくぶん冷静に読むことができました。そうやってちょっと客観的にこの本を読んでみると、あらためて、ブータンという国の面白さに気づきます。それに、私はとんでもない時期にこの国にいたのだということも。
私が赴任したのは、ブータンが民主化して2年経った年でした。それまで国王がすべてを統治していた絶対王政から、国民が選挙により選んだ首相が政治を司る民主主義に移行したばかりのころです。私の上司だった首相は初めての民選の首相で、大きなプレッシャーを抱えながら仕事をしていましたし、国全体みんなが手探りの状態でした。日本でいうと、明治維新直後がこのような感じだったのでしょうか。
私の立場は、お雇い外国人のそれに近かったかもしれません。ブータンにとっても、まさに激動の時代だったと思います。また、ブータンは私にとっては未知の国だったので、その中で、必死にアンテナを張って、面白がりながらも、一生懸命に生きていた感触も思い出しました。あのタイミングで、ブータンという国にいられたことは、奇跡のようなことだったかもしれません。
その後、ブータンにも私自身にも、さまざまな変化がありました。ブータンにあった大きな変化といえば、2013年の政権交代でしょうか。2008年に初めての国民議会選挙が行われ、2013年に行われた2回目の選挙でさっそく政権交代したのです。
この一件は、多くの人にとって「まさか」だったと思います。それほど予想されていなかったですし、最後のどんでん返しが起こったドラマチックなできごとでした。この選挙により、上司だったジグミ・ティンレイ首相は退任しました。私は彼を支える身だったので、日本で結果を聞いたときはとてもさびしかったですが、大きな目で見るとこれはブータンにとってよいことだったのだろうと思えました。選挙の詳細については割愛しますが、国が民主化し2度目の選挙で政権交代したことで、ブータンの人たちは本当に「自分たちのリーダーは、自分たちで選ぶのだ」という実感を得られたのではないかと思います。
民主化して5年。こんなに早期に民主主義が機能するなんて、やっぱりブータンはどこかすごいです。(と捉えてしまうあたりが、まさに「ブータン、これでいいのだ」。私もブータン流の楽観主義がうつっているのかもしれません(笑))また、この本に何度も出てくる、敬愛する上司だったカルマ・チティームGNHC長官は、栄転して別のポジションに就きました。
思えば、2人の上司に恵まれて仕事をしていたブータンのあの環境は、ほんの一瞬のものだったのかもしれません。諸行無常を感じもしますが、しかし、変わらないものもあります。たとえば、友情。そういうと青春ドラマみたいで気恥ずかしいですが、フレンドシップというものはそうそう変わらないものだと日々実感します。
先日迎えた誕生日には、日本人の友人たちと同じくらい、ブータンの友人たちからもFacebookでメッセージをもらい、驚きつつ、とてもうれしく思いました。それに、相変わらず仕事中もFacebookを使いまくっているブータンの友人たちは、平日の日中でも平気でメッセージ機能を使って話しかけてきます。
友「やぁ、たまこ。元気?」
私「うん、元気。そっちは?」
友「いまからランチ」
私「どこ行くの?」
友「ヤンキル食堂だよ。今日はシャッカム・ダツィ(牛干し肉のチーズ唐辛子煮込み)にしようかな」
私「いいなー。私もヤンキルに行きたい」
と、会話の内容まで、ブータンの職場で机を並べていた当時と変わりません。ブータンの仲間と今日もそんな話をしているというのは、なんだか愉快です。そして彼らの日常生活もまた、そんなに変わっていないように見えます。家族で食べる夕ごはん、週末のピクニック、ファーマーズマーケットに並ぶ野菜、職場での仲間との談笑。SNSで見かける彼らの写真は、かつても今もほとんど変わりありません。水面は常に風を受けて変化していても、水中の様子はそんなには変わらない。人の暮らしというのはそのようなものなのかもしれません。
私の方はというと、ブータンの首相フェローの任期を終えたあと、日本に帰国し、東日本大震災後の東北に向かいました。そこでさまざまなご縁をいただき、「気仙沼ニッティング」という編み物の会社を起ち上げ社長になり、いまに至ります。
「気仙沼ニッティング」は、地元の編み手さんたちがセーターやカーディガンを編み、それをお届けするという会社です。働く人が誇りを持てる仕事をつくり、震災の記憶が薄れたあとも続いていく会社に育てようと始めました。気仙沼ニッティングの起ち上げの顛末は、『気仙沼ニッティング物語~いいものを編む会社~』という本にまとめ、昨年新潮社より出版しましたので、詳しくはそちらに譲ります。
ブータンの首相フェローから、気仙沼の編み物会社の社長という転職(?)は、ずいぶん突拍子もないものに思えるかもしれません。ブータンにいたころは、いつも民族衣装の「キラ」をまとっていましたが、いまでは秋冬は毎日セーターを着ています。また、以前は大きな組織(ブータンは小国ですが、国というのはやはり大組織だと思います)でリーダーの脇にいて仕事をしていましたが、気仙沼では自分がリーダーとしてゼロから起ち上げる仕事をすることになりました。
ブータンと気仙沼の仕事は、一見全然違うものなのですが、私にとっては限りなく同じ仕事でもあります。端的には、「この地域の役に立ちたいな」と思うところへ出向き、その地域が力をつけて自立できるように産業を育てる仕事、というところでしょうか。
それに、意外かもしれませんが、ブータンの人と気仙沼の人はどこか似ているのです。小さな地域に住みながら、いつも目は世界を向いているグローバルな感覚の持ち主であるところ。いつも堂々としていて、どんな相手でもまっすぐに目を見て自分の意見を言うところ。大きな自然に敬意を抱き、人間の力ではどうにもならない不確実さを呑み込む胆力があるところ。
気仙沼の人たちと付き合っていると、彼らの性格が、いわゆる典型的日本人とはずいぶん違うことに驚かされます。これは、気仙沼が遠洋漁業の港町であることと関係があるのかもしれません。気仙沼の船は世界の海を股にかけて漁をしますし、日本中の船が気仙沼の港に来て水揚げをします。
また遠洋漁業は、遠くの海まで出かけて行って、当たれば大漁はずれれば不漁という、ハイリスク・ハイリターンな狩猟民族的産業です。そもそも農耕文化とは違う性質なのかもしれません。気仙沼の人たちと付き合っていると、「こんな日本人がいるんだ!」と驚くこともありますし、「どちらかというと、ブータン人に似ているかも」と思うこともあります。東日本大震災をきっかけに向かった東北で、こんな人たちに出会うなんて、ご縁というのはつくづく不思議なものがあります。
さて、このあとがきを書いているのは2016年4月ですが、来月にはひさしぶりにブータンに行くことになりました。さながら里帰りの気分です。上司だった長官に連絡すると、すぐに返事がありました。
「それはうれしいニュースだ。君の身にも、ずいぶんいろんなことが起こったようじゃないか。ひさしぶりに会えるのを楽しみにしているよ。ぜひ1度ごはんに行こう。もちろん、2度でも。」
お互いつもる話が多すぎて、1度の食事では話し切れないほどかもしれません。そんな帰郷が、いまから楽しみです。
みなさんも、ブータン、ぜひ遊びにいらしてくださいね。
2016年 春 御手洗瑞子