僕が初めてプラハのユダヤ人墓地を訪ねたのは晩秋で、ベルリンの壁が崩れるずっと以前のことだった。薄暗い墓地を巡ったあと、小さいゴーレム人形を記念に買ったのを覚えている。ナチのホロコーストに霊感を与えた史上最悪の反ユダヤ主義の偽書「シオン賢者の議定書」は、誰が何処でどのように捏造したのか、本書はその謎に挑む諧謔に満ちたピカレスク小説である。エーコの小説として翻訳されたのは、確か、名作「バウドリーノ」以来だが、それに勝るとも劣らない傑作だ。
サルデーニャ王国の首都、ピエモンテのトリノで、美食家でユダヤ人嫌いの祖父に育てられたシモニーニは、祖父を破産させた公証人の事務所に雇われて文書偽造の腕を上げる。ピエモンテ政府の情報部に雇われたシモニーニは、先ず老いた公証人を破産させて財産を乗っ取る。これでおあいこだ。かくして、小悪党が誕生したのである。トリノの図書館でプラハの墓地の美しい版画を見つけたシモニーニは、この場所こそイエズス会やフリーメーソン、ユダヤ人などの世界征服の悪魔的な陰謀に相応しいと考える。そしてシモニーニは、人生を通してプラハの墓地を舞台にしたさまざまな陰謀書を剽窃を重ねながら書き継ぐことになる。こうして文書偽造の守備範囲は、遺言書や証明書等の個人的な書類から政治的な文書へと広がっていく。
ところで、ピエモンテ政府から命じられた最初の仕事はガリバルディが占領したシチリアでの策謀だった。若いシモニーニは仕事が上手に出来ず、パリへ逃れて今度はフランスの秘密情報部に仕えるようになる。時代はパリ・コミューンからドレフュス事件へ。シモニーニは混乱の中でメキメキと仕事の腕を上げ、殺人にも動じないようになる。そして最後にはロシアの秘密情報部へ文書偽造の集大成とも言える「シオン議定書」の原案を提供するまでになったのだ。
知の巨人エーコは、女性を嫌悪し美食に走る魅力的な悪漢シモニーニを造形したが、他の主な登場人物は実在しており史実に忠実である。脇役でフロイトやデュマが出てくるのだ。これだけでも、ワクワクしないはずがない。本書は、老いたシモニーニと彼の分身(仮装)であるダッラ・ピッコラ神父(本物はシモニーニが殺害)が、交互に過去を回想する日記の体裁をとっている。1897年3月24日から4月19日の間に24章の日記が書かれ、1898年11月20日、12月20日の日記が掉尾を飾っている。本書には、著者秘蔵の挿画が多数挿入されており、シモニーニが食した凝った料理の数々が紹介されているのでページを捲るのがとても楽しい。
しかし、あのエーコが面白いだけの小説を書くはずがない。小悪党、シモニーニは「今でも私たちのあいだに存在している」と著者は指摘する。技術の進歩で史料の偽造は容易になり、エーコが本書で描いた憎しみと差別のメカニズムは、インターネット社会の到来によって匿名での誹謗中傷など偏見と憎悪がむしろ増幅されている。現実には、巨悪より小悪党の方がむしろ厄介なのだ。このようにして生み出された他者への憎しみと不寛容こそが21世紀の社会が抱える最大の病巣ではないか。僕たちに重い課題を残して、巨星エーコはこの2月に神に召された。合掌。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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