『ゲノム革命 ヒト起源の真実』訳者あとがき

2016年4月9日 印刷向け表示
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ゲノム革命―ヒト起源の真実―

作者:ユージン・E・ ハリス 翻訳:水谷 淳
出版社:早川書房
発売日:2016-04-07
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人類はいつ、どこで、どのようにして誕生したのか? はじめて二足歩行して言葉をしゃべり出し たのはいつか? 太古の人類はどのような姿をしていたのか? われわれはチンパンジーやゴリラな どの類人猿とどのような関係にあるのか? 人間はどのようにして高い知性を獲得したのか? かつ てわれわれとは別種の人類が生きていたのか? 彼らとどのような関係を築いていたのか?

生まれつき探究心を持っていて、自分自身を省みることのできる唯一の動物であるわれわれ人間がこのような疑問を抱くのは、ある意味必然といえる。事実、太古の昔から数々の文化には、人類誕生に関する神話や伝承があった。たとえばギリシャ神話では、人間は土から生まれ、プロメテウスによって火を授けられたとされていた。ヨーロッパでは中世から近世にかけて、聖書に記された人類誕生の物語が堅く信じられ、神が創造したアダムとイヴがすべての人類の祖であるとされていた。そして人間も他の動物も、創造されたときからいままでずっと同じ姿をしていて、けっして変化していないとされていた。

しかしやがて、さまざまな絶滅生物の化石が発見されるにつれ、生物は長い年月をかけて徐々に姿を変えてきたのではないかという可能性が浮上してきた。そして19世紀半ば、ダーウィンが科学的な進化論を説いて、生物の連続性と進化のメカニズムを明らかにした。その進化論によって、人間は太古から人間だったわけではなく、もっと下等な動物から進化してきたのだという考え方が定着した。

人類の進化の様子を知るには、古代の人類の化石を調べれば事足りるように思える。さまざまな時代に生きていた人類の化石を見つけてそれらを年代順に並べれば、かつて人類はどのような姿をしていたのか、どのような変化を経て現在の姿になったのかが明らかになるはずだ。比較的最近まで多くの人類学者はそのように考えていたようで、とにかく世界中で古代の人類の化石をできる限り数多く発掘し、形態の変化に基づいて人類の系譜を完成させることを目指していた。そのような取り組みによって、人類は猿人から原人、旧人、新人というただ一本の系統をたどって進化してきたというイメージが浮かび上がってきた。よく見かける、背中を丸めたサルのような姿から徐々に直立していって最終的に現代の人類になるというあの図だ。

ところが古代の人類の化石が次々と発見されるにつれ、そのような単純な考え方ではどうにも辻褄が合わなくなってきた。かつてそれぞれ同時代に多種多様な人類が生きていたし、中には古い特徴と新しい特徴を合わせ持った種もいたのだ。さらに他の動物種で、化石の形だけからでは正しい類縁関係を導けない例が次々と見つかり、形態に基づいて人類の進化を解き明かす方法には限界があるという認識が広がった。

一方で分子生物学の分野では、コンピュータの進歩とともにDNA配列解析技術が急速に発展し、2003年にはヒトのゲノムの全塩基配列が決定された。さらに、類人猿を含めさまざまな生物のDNA配列や、いくつもの人種・民族のDNA配列も決定されるようになった。このような進歩のおかげで、形態という、研究者の主観に左右されかねない証拠でなく、塩基配列という体系的で客観的な証拠に基づいて生物種どうしの類縁関係を導けるようになった。それによって従来の生物の分類法が大きく修正され、進化に対する見方も一変した。そして人類学者もDNAによる方法論を受け入れるようになり、塩基配列に基づいて人類の系統を解き明かす動きが本格化した。

本書は、ゲノム配列に基づいて人類の起源や進化を描き出すその最近の取り組みを、一般の読者向けに解説した本である。収集したゲノムデータをどのように使い、どのような特徴に注目すれば、人類の進化の様子や類人猿との類縁性に関する知見が得られるのかを、具体例を挙げてひもといている。 その上で、人類とチンパンジーやゴリラなどとの関係性や、人類が誕生の地からどのようにして世界中に広がっていったのか、どのようにして高度な知能を獲得したのかを、現段階での研究成果に基づいて解説している。

さらに、人類と絶滅近縁種との関わり合いや、現代の人々を苦しめている病気の由来などについても説いている。最近話題になっている、われわれと他のヒト類との性的接触についても、DNAのデータに基づいて論じている。実際のゲノミクス研究では数学や統計学が多用され、情報技術がおおいに活用されているが、本書ではこの分野の全体像がとらえられるよう、そのような細かい話は省いてエッセンスが説明されている。それでもどうしても込み入った説明になってしまった点はいくつかあるが、具体例や図版を手掛かりにゆっくり読み進めていけばきっと理解できるだろう。そしてゲノムの奥深さや最先端研究の雰囲気を感じ取れるはずだ。

ヒトのゲノムには約30億個もの塩基対が含まれていて、それらがいわば暗号文を形作っている。 その暗号文の文字がどのように並んでいるかはヒトゲノム計画によって明らかになったし、それぞれの塩基の組み合わせがどのアミノ酸に対応するかも完全に解明されている。しかしその暗号文は、進化という行き当たりばったりのプロセスの累積によって形作られてきたため、何ら意味を持たない不要な部分があったり、いくつもの部分が互いに影響を及ぼし合っていたり、複数の意味を持っている部分があったりと、かなり複雑な様相を呈している。そのため現段階での知見の多くは、塩基配列が具体的に何を意味するかはとりあえず棚上げにして、その配列の統計的な特徴のみに基づいて導かれている。いわゆるビッグデータに基づくその方法論は、確かに成功を積み重ねている。

しかし本文でも述べられているとおり、そのような統計的アプローチだけでは、それぞれの塩基配列が具体的にどのような働きをしていて、どのような形質と結びついているかはわからない場合が多いという。それと相補う生化学的研究も並行して進めていくことではじめて、ゲノムという暗号文の意味を完全に解き明かし、そこに紡がれている物語を本当に理解できるようになるのかもしれない。

われわれ門外漢には遺伝学はどうも難しく感じられるが、その理由の一つが、日本語の学術用語に混乱が見られることである。それはおそらく、まだあまり研究が進んでいなかった頃、当時の限られた知見に基づいて術語が当てはめられたためだろう。そもそも「遺伝学」という言葉自体が、この分野の内容を正しく反映していない。実際の遺伝学は、形質が親から子へ受け継がれるいわゆる「遺伝」と、個体や種のさまざまな形質の違いである「多様性」の両方を対象とする学問とされているが、 「遺伝学」という言い回しではその一方しか表現されていないのだ。

個々の用語については、たとえば塩基配列や形質の変化を意味する mutation と、個体どうしで異なっている塩基配列や形質を表す variant という用語が、どちらも「変異」と訳されてしまっている。また、本来は塩基レベルの概念である locus や allele(アレル)が、それぞれ「遺伝子座」、「対立遺伝子」と、あたかも遺伝子レベルの概念であるかのように表現されている。さらに「優性」や「劣性」という言葉などは、かつての優生学の雰囲気まで漂わせている。用語をめぐる問題は専門家のあいだでも認識されているらしく、 2009年には日本人類遺伝学会がいくつかの遺伝学用語の改訂を発表しているし、日本遺伝学会も新たな用語集の編纂を進めているようだ。とりあえず現段階では、われわれ素人が遺伝学に触れるときには、用語の字面に惑わされずにその本当の語意を意識するよう心がけるべきだろう。

近年、古人類学はものすごいスピードで進歩している。本書の原書が出版されたのは2014年末だが、その後も人類の進化に関する重要な発見が続いている。2015年9月、南アフリカで新たなヒト類の化石が発見されたという発表があった。ホモ・ナレディ(「星の人」)と名付けられたその人類は、腰や脚は直立歩行に適した形をしていながら頭はきわめて小さく、まるで猿人の上半身と現生人類の下半身をつなぎ合わせたような姿をしているという。どの年代に生きていたかはまだ明らかになっていないが、人類の進化上重要な存在になるかもしれない。

2016年2月には、ネアンデルタール人の古代DNAの再解析によって、現生人類とネアンデルタール人との交雑に関する新たな事実が明らかとなった。早くもいまから約10万年前には、現生人類とネアンデルタール人とのあいだで交雑があったのだという。本文でも述べられているように、従来の学説では人類の「出アフリカ」の年代は約5万年前とされていたが、この発見によってその年代も約10万年前にまでさかのぼることとなった。

また同じく2016年2月、ゴリラの祖先とされる化石の年代測定によって、ヒトとゴリラの系統が分岐したのは従来の学説よりも昔の約1000万年前であるとの説が裏付けられた。わずかな化石しか見つかっていなかったデニソワ人をめぐってもいくつかの発見があり、徐々にその正体が明らかになりつつある。このように人類進化史はいま頻繁に書き換えが繰り返されており、今後も新たな研究成果から目が離せない。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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