ビジネスのことであれ、社会全体のことであれ、誰だって正しい方向へ努力したいと思っているはずだ。だがその努力は果たして全体最適へと向かっているのか、それとも部分最適に過ぎないのか。分からぬところに問題がある。
判別を難しくさせているのは、多くの人がいとも簡単に専門領域にとらわれ、視野の狭い状態へ陥ってしまうためだ。先の金融危機など、その顕著な例と言えるだろう。誰もが知らぬ間のうちに、ちっぽけな専門家集団、社会集団、チームやグループの中へ閉じ込められてしまう状態ーー著者はそれを「サイロ」と呼ぶ。
大企業病、組織の硬直化、派閥争い、セクショナリズム、官僚主義…。いわば企業における失敗の要因として語り尽くされたかのように思える本テーマに新たな風を吹き込んでいるのは、文化人類学の視点である。著者は、かつてタジク人の風習をフィールドワークした時の経験に基づき、その対象を特定の企業や金融機関、そして学問分野へと広げた。
本書は、なぜサイロが形成されるのか? そしてサイロにコントロールされるのではなく、われわれ自身がサイロをコントロールする術はあるのか? これらの問いかけを、数々の事例とともに検証していく。
冒頭で登場するのは、イノベーションの芽をつみ、大きなチャンスを逃したソニーの事例だ。会社をサイロに分割することこそが新しい経営と信じていたソニーでは、ある日同じ機能を持つ3つの互換性のないウォークマンが同時に発表された。一方で、サイロとは無縁の存在でいられたのがスティーブ・ジョブズのワンマン体制に率いられたアップル。両者の行方がどうなったかは、もはや誰もが知りうる事実だろう。
ソニー側も、サイロの問題に対して手をこまねいていたわけではなかった。サイロとは無縁の存在であったストリンガーをCEOに据え、サイロの破壊を目論むも、社内の強固なファイアーウォールを崩すには至らなかった。だがはたして、ジョブズ流の独裁のみがサイロの問題に対処する唯一の術なのか? 組織がもっと大きなスケールでサイロを破壊する方法を見出したケースとして、Facebook社の事例が挙げられている。
IT業界における数々の先達の教訓に学ぶことのできたFacebook社では、流動性の高い人事制度、ハッカソン等の組織横断型のプロジェクトを仕組み化することで、サイロの問題に対処してきた。だがもっとも重要なのは、絶えず実験を続けなければならないという「ハッカーウェイの精神」であったと指摘する。このように企業の文化的な側面とサイロの問題を関連付けて分析しているところが、著者ならではだと思う。
この他にも本書では、外科や内科といった病院の専門を廃止して革新を生み出したクリーブランド・クリニック、大手銀行のサイロを研究し尽くして大儲けしたブルーマウンテン・キャピタルの事例などが紹介されている。
現代社会においては、一般的に専門化と集中が好ましいものとされてきた。だがこの点にこそ、非常に悩ましいパラドクスが存在する。われわれの世界は効率化を追求しすぎると、かえってうまく機能しなくなるのだ。必然として訪れるサイロの問題を可視化し、誰かが変革をしなくてはならない。その全ては、対象を分類するところから始まるのだ。
本書の面白さは、TVに出てくるオネエ系タレントや外国人タレントがズバっと本質を突いてきた時の感覚にも通じるところがある。マツコ・デラックスしかり、厚切りジェイソンしかり。あまりにも当たり前の分類、しかも語られないほど身体化された慣習に気付くことができるのは、いつだってアウトサイダーの視点である。それを言語化することは、エンタテイメントになるほど痛快な行為であることに気付かされる。
世界は画一化しているようでもあり、細分化しているようでもある。背景にある多様性の有り様の変化も、決して無視できない存在だ。かつて社会と社会の間に存在した多様性は、社会内部の中へ移行しつつある。だからこそ組織が硬直化することの被害は、これまで以上に甚大なものとなって跳ね返ってくるのだろう。重要なのは、ビジネスプロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のものの考え方も変わるかもしれないということなのだ。
まずは、「Why? Japanese People! Why?」といった類の言葉に耳を傾けることから始めてはいかがだろうか。以上~