「好事魔多し」とはよく言ったものだ。
もろもろの多難を乗り越え、ようやく安定が見えてきたころ、ドカンと足元に大きな穴が開く。人生にはよくあることだと言われるかもしれない。
でも、あとからよく考えてみると、その穴は突然できたわけじゃなく、少しずつ広げられていったものなのだ。多忙な期間は、見たくないから知りたくないから、いろいろな理由を付けて良い方に解釈してきた。そのツケがまわってくるのが、一息つけるようになった時なんだろう。
矢作理絵、33歳。アパレル業界のフリーインポーターだった2011年は、多忙を極めていた。東日本大震災で日本のファッションイベントがすべて中止になる中、日本のものづくりを紹介するため、ベルリン、ニューヨークと飛び回っていた。
ただ、徐々に体が不調になっていくのは感じていたのだ。熱っぽいから風邪か?ちょっとぶつけると痣になるのは何?大量の鼻血、止まらない生理、貧血の連続。気にはなるけど仕事が先。だがどうにも頭から離れなくなって、近所のクリニックに駆け込んだ。
血液検査の結果、ただならぬ雰囲気。聞けば治療に当たってくれた医師は血液専攻で、すぐに大病院に行けという。駒込病院を紹介してもらって直行すると血液の病気であることは間違いなく、即入院だと告げられる。
結論から言えば、彼女の病気は「特発性再生不良性貧血」であった。100万人に5人の確率で厚労省指定の血液難病だ。
不幸中の幸いだったのは両親が元気で、彼女に尽くしてくれたことだ。ただ父親がかなり素っ頓狂な人で、これはこれで重くなりがちな本書の笑いのツボになって、読者にとってはありがたかったのだが……。
さて、多少具合が悪いとはいえ昨日まで元気に働いていた人が、医師も驚くほど重症だとは本人も思えなかったのだろう。最初はあくまでもお気楽である。同室の人との会話も長閑だ。ただこの温かい時間も一瞬のこと。診断が下るまでの検査だけでアレルギー反応に苦しめられ、息苦しさに苛まれていく。
幸いにもガンのような悪性疾患ではなかったが、状態はステージ5の最重症で、治療方法の第1オプションは骨髄移植。それも兄弟で型が一致していれば一番いいという。だがたった一人の兄に拒まれ、第三者からの提供を受けることになった。
2番目の方法としてATG療法が選択された。これは免疫抑制療法で、ウサギから作られた抗体を注入され「ウサギ証明書」が発行される。敗血症を予防するため虫歯の治療までしたが効果は上がらず、骨髄提供者を待つことになった。幸い、すぐに見つかり手術への段取りとなる。
骨髄移植をした患者の病気との闘いは『セカチュー』やらテレビドラマやらで想像がつくだろう。骨髄を注入された後、感染しないようにビニールのテントの中で生着するのを待つ。その間で命を落とす人もいる。しかし矢作さんの大変さはその比ではなかった。
「確率数パーセント」の障害が怒涛のように押し寄せてくる。医師でさえ見たことのない症状に、対症療法で切り抜ける。臨死と言ってもいいような状態に2度陥り、一度は親戚友人一同を呼び、一度は医師から「あと二日」の余命宣告まで出されてしまうのだ。まるでおみくじの大凶を10回続けて引いたようなものだ。
だが、最後のおみくじが大吉だった。だからこそこの本が書けたのだけど、その瞬間、読んでいた私ですらガッツポーズをつくってしまうほど、それは奇跡の復活だったのだ。
闘病記は読むのが辛い。なのに読まずにはいられないのはなぜだろう。いつか自分に降りかかってくる「大病」に身構えるため?同じ病気の人に体験を知ってもらうため?どちらも当たりだが、私の場合は「人間の強さ」を確認したいからだと思う。
もちろん患者本人の強さは当然だが、家族や友人たちの支え、医師や看護師たちの働き、医学の進歩など、この本からたくさんの知識を得た。これはいつか私の役に立つ。
矢作さんは命を取り留めた。だが、タイトルどおりポンコツの骨髄を宥めながら過ごしている。よくがんばったね。そして、よくこの本を書いてくれました。ありがとう。