タイトルが秀逸。「1998年の宇多田ヒカル」という単語を目にしただけで、様々な情景が昨日のことのように蘇ってくる。だが皮肉なことに、それは音楽に心を躍らせるという経験が、その時から更新されていないことを意味するのかもしれない。
1998年が、いかにエポックな年であったかを示す事実はいくつもある。1つは日本の音楽業界史上最高のCD売上を記録した年であるということ。そしてもう1つは、現在においても日本の音楽シーンにおけるトップ3の才能と目される音楽家が、すべて同じ1998年にデビューしたことである。それが、宇多田ヒカル、椎名林檎、aikoの3人だ。
本書は「史上最も同期に恵まれていた」3人に浜崎あゆみを加えた女性ソロアーティスト達を題材とし、1998年からの18年間が音楽史においてどういう意味を持つのか紐解いていく。単に当時をノスタルジックに振り返るだけでなく、そして現在の状況を憂うだけでもなく、絶頂の1998年から現在へ向かって一直線に引かれた矢印の姿形には唸らされた。
アーティストが、自分自身の言葉でファンに直接語りかける時代でもある。にもかかわらず、第三者が言葉を紡ぐ意味とは何か? 著者はその答えの一つに、多くのアーティストが、等身大の自分ではなく、そうありたい理想の自分を語りがちであることを挙げる。
だからこそ、真実は「語られなかったこと」「訊かれなかったこと」の中に隠されている。そこで著者は、周囲のスタッフにお膳立てされた最初のデビューではなく、表現者として自分の足で新たな一歩を踏み出した「二度目のデビュー」へ着目していく。
宇多田ヒカルというアーティストの真骨頂は、スタジオ育ちという環境の中にあった。最終的にはプログラミングも含めてすべての音を統括していく彼女の才能を大きく開花させたのは、編曲家としての記念すべき第一歩を踏み出した「FINAL DISTANCE」である。
一方、椎名林檎は、数々の音楽家と交流しながら自分の世界を作り上げていく、セッション型のアーティストだ。鮮烈のデビューから東京事変というバンドへ身を投じ、その後再びソロ活動を再開した時の曲「ありあまる富」が、二度目のデビューと定義されている。
そしてデビュー曲「あした」で辛酸を嘗めたaiko。彼女にとっては、8ヶ月後のセカンド・シングルの時こそが二度目のデビューと言えるだろう。以降、長年にわたって自らのスタイルを進化させつつも、受け手に変化を感じさせない稀有なアーティストでもある。
メディア環境は大きく変化し、かつての音楽と今の音楽が等価になってしまったかのようにも思える。だが、音楽が人の営みによって作られるものである以上、作り手の人間としてのそれぞれの物語があるはずだ。著者は、彼女たちが築いてきたものを丹念に追うことで、フラットな空間に年輪を再構築していく。
さらに、彼女達の足取りを、宇多田ヒカルを起点としたアーティスト同士の関係性という観点からも重ね合わせる。同じレーベルとしての親密さから宇多田に共闘を呼びかける椎名林檎。孤高の存在として、距離の置いたスタンスを貫いていくaiko。かつて歌姫対決として競い合ったものの、CDの時代の終わりとともに自由を手にした浜崎あゆみ。
かつて音楽に触れることは、もっと身近な行為であったと思う。TVからも街からも音楽が溢れ、時代の空気を作っていた。しかし、年間チャートが音楽の指標とならず、様々なジャンルが特定の圏域に閉じこもってしまった今、音楽を広く解き放つためには、もっともっとプロの書き手による言葉の力が必要なのかもしれない。
本書は、超メジャーなアーティストを題材に、かつて「なんとなくCDを買っていた」層へ呼びかけている点が、アプローチとして非常に斬新である。CDの時代が終わろうとしている音楽業界と、当事者発信の情報に押され気味なジャーナリズム。その双方に新たな変節点を作ろうという、強い心意気を感じた。