監督の作品を初めて観たとき、僕は31歳だった。
自分の女性との付き合い方に疑問を抱きながらも、どうすれば良いか分からず、覚束なかった20歳前後からあまり変われずに、関係性の深まらない異性との付き合いをし続けていた。
そんなとき、偶然観ることになった『チャネリングパフォーマンス 胎内宇宙』(『アテナ映像30周年記念特別版 代々木忠の「快感マトリックス」』中に収録)が僕に衝撃を与えた。
そこでは、男性不信だった女性がオーガズムを経験し、男性への見方が変容していた。
出演した女性に、最後に監督が聞いた。
「男って、どうかな?」
「ん? 男って? 男って……」
何かを探すように、目はどこか遠くを見つめていた。それから彼女は呟いた。
「……私……」
「じゃあ私を敵に回していたわけだ」
「そう!」
はじめは男性への不信を仏頂面で語っていた女性が、菩薩のような、無邪気な少女のような顔をしていた。その表情は美しく、観ているだけで自分もまた素直な気持ちになるように導かれた。
ハラハラと、自分の強がっていたものが解けていった。僕もまた、女性を怖がるあまり、女性に対して攻撃的になっていたのだと自覚した。
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当時、僕はナンパをしたり、人にそれを教えたりしていた。
心を通わせるというよりも、どうすれば女性に抵抗されずにセックスできるかという、まさに女性をモノ扱いする方法を伝えていた。どんな言葉を使い、どんな声を出し、どんな服装で、どんな距離で話しかけ、どんな風に会話を進めていくかを伝える。それは相手といかに心を通わせるかというよりも、いかに自分の心を開かないまま、セックスができるように会話を進めていくかというものだった。
当然、心を開いた会話などしないから、セックスも楽しいものではない。ただ、容姿が良かったり、社会的地位があったり、多くの人に好かれそうであったりする女性が、自分の目の前で目を閉じ、膣内に自分の性器を入れているのを見て興奮していた。
本書のはじまりにある菜月のセックスと同様に、いくらセックスをしても満足感はない。ただただ欠落感が募っていく。だからこそ、経験人数だけを積み重ねてしまうのだ。
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それから監督の作品にはまり続けた。監督がいったい何をしているのか、知りたかった。じっくりと話し、催眠も使いながら、女性の心を開いていく姿がとにかく格好良かった。優しく話していたかと思えば、急に鋭利な刃物のような言葉を出演者に突き刺しもする。その両方を、観ているだけで感化されて狂ってしまいそうになるほどの集中力で行っていた。
憧れて、とにかく真似をしたくなった。今から思い出すと、表層的な部分を必死に真似ていた自分を愚かに思うが……。監督の作品を観て、見様見真似で出会った女の子に、セックス中に催眠をかけ始めた。
もし監督を目の前にして、その声が自分に届けられたときに、僕はどうなってしまうんだろうか。映像を観て、真似するごとに、関心が抑えられなくなり、気がついたら監督が出演されるイベントに参加していた。
そこには、背骨がすっと伸びた、誰も触れることを許されないような孤高の姿があった。それでいて、眼差しは人々を包み込んでいた。
そこで幸運にも監督にお話しできる機会に恵まれ、監督が作品の中で行っていることや催眠の使い方がどれだけ素晴らしいと思っているか、映像から受けた感動を必死に語った。歓喜と緊張と畏怖がごちゃ混ぜになった興奮で高熱にかかったようだった。
監督は静かにその話を聞いて、一言、答えてくださった。
「ありがとう。でも、俺は女がイクところを撮りたかっただけなんだよ」
その言葉は雷のように自分を貫き、僕をバラバラに解体した。
いったい自分は何がしたかったんだ。もっと自分の深い部分に答えを求めることができるはずだと、直感的に思った。
僕は女性に、自分の情念をすべて注ぎ込みたかった。
相手を支配したい、甘えたい……さまざまな欲求が自分の中にはあった。セックスしながらも、それらを表現することを躊躇していたのだ。むしろ、それらを隠している方が、外からはいやらしく見える。一方で、本書にも登場する竜也や達也が女性に甘えたときに見せた表情には、それまでの頑なな感じから一転して、可愛らしく、感じの良い印象が生まれていた。
セックスで相手に情念をぶつけられるくらいの深い関係性を会話で築くのは大変なことだ。互いに心を開かない表層的な会話だけでは、そんなセックスには至れない。その会話を試みるごとに、映像で観た、監督が女性と話す様子が思い出された。
自分の心を開いて、相手にも開いてもらうことは難しい。繊細にいかなければ、こちらだけ一方的に開いているような感じになってしまう。しかし、繊細さを重視するあまりに大胆さを欠き萎縮してしまうと、相手とつながれるタイミングを逸してしまう。
上手く互いに話ができたとき、自分の情念をぶつけるように女性の体に触れることができた。すると、「もっと私をあなたの好きなようにして!」と女性がそれを求めもした。性器を入れると、「あなたを全部食べたい」と女性が欲求を僕にぶつけてくることもあった。「いいよ。丁寧に残さず、最後まで」と応えた。そうするとぴたりと体が重なり、彼女の膣内に淡い電気が流れるような感じがした。そのときには、自分が今まで知らなかった心地好さがあった。純粋にぶつけられた欲望は、すっと体が受け容れてしまう。このまま死んでしまいたいような、それでいて、終わった後はもっと生きたいと思えるようなセックスだった。
*
はじめは劇的な変化の起こる作品を好んで観ていたが、今頻繁に思い出す作品がある。『女が淫らになるテープ14 獣の棲んでる淑女たち』だ。
この作品には、赤坂のクラブのオーナーママが登場する。綺麗な顔立ちで、スタイルの良い体、色っぽい下着……。一見艶があるのだが、セックスをすると、いつもオナニーのネタにしているレディコミの妄想の中に入り込み、目の前の男性を無視してしまう。感じてはいるがオナニーをしているのと変わらない。彼女は相手を見ることはほとんどなく、目を瞑っている。目を見ることを指示されてもすぐにまた閉じてしまう。
監督はこの作品について、こう書いている。
このビデオは、なんとか「形」にはなったが、苦労したわりに「うーん」という出来だった。結局、彼女が本気で深いオーガズムに達することはなかった。(『快楽の奥義』角川書店)
「苦労した」と書かれている通り、監督がいかに粘り強く彼女に付き合っていたことか。頑なに心を開くことを拒む彼女を見つめる視線が優しかった。彼女に対して決して否定的にはならず、ただただ付き合っていた。観ているこちらが、「いい加減、ちゃんと監督の言うことを聞いてくれ!」と彼女を怒りたくなるほどだ。しかし、監督は怒らずに彼女の話をじっと聞いていた。
映像としては劇的ではなかったが、劇的なことが起きない淡々とした出来事であるときこそ、監督の人間に対する姿勢が感じられる。あのとき、監督は彼女のことをどう思っていたのだろうと、ふとこの作品を思い出し、見返すことがある。
オーガズムを経て人が変容する、劇的な作品を撮っているのに、うまくいかなかったときにはそれを静かに認めるところに、監督の作品全体に漂う気高さ、他人に対する誠実さを、僕は感じずにはいられない。
人に心を開くことを強要する人では決してない。むしろ、人を丁寧に見つめる人だと僕には見える。それは実際に監督を前にしたときもそうだった。ただその視線を受けるだけで、等身大の自分を自然とすっと見出してしまうのだ。
女性も「自分がオナニーをしている」ことなど、恥ずかしくて人には絶対に言えない、というような雰囲気のころだ。けれど、どうしても女性のオナニーをのぞいてみたい。どんなやり方で気持ちよくなるのだろう? 指がいいのだろうか? なにか道具を使うほうが感じるのだろうか? どこを触るのだろう? なにを想像して? 誰のことを考えて?(『快楽の奥義』角川書店)
『ザ・オナニー』を撮ることになった経緯について、こう書かれている。もともと、〝他人がどう感じているのか〟を純粋な関心と、執拗なまでの情念を込めて見る人なのだ。
ナンパを教えたり、カウンセリングをしたりしていると、コミュニケーションにおいて、他人を想像することよりも、「どうすればうまくいくか」を知ろうとする人が多い。悩んでいると、相手が何を考え、感じているかよりも、どうすれば成功するか、失敗しないかと手段を探してしまう。
そんな人たちに、「相手はそのときどう思っていたんでしょうね」と問いかけてもぽかんとされる。あるいは、「何が言いたいのか、よくわからないんですけど。早くどうすればいいか教えてくださいよ」と怒られることもある。
彼らに「自分で考えろ」と怒っても仕方がない。「どうすればうまくいくか」に執着している人が考え、感じていることを、こちらが想像できなければ、彼らと話をすることができない。
失敗しないための方法に拘泥し、他人の感情を想像できない人は、自分自身の感情が感じられていない。
監督の作品には、感じないようにし続けてきた感情やそれに伴う記憶をじっくりと聞こうとする、人を優しく包み込むような雰囲気が流れている。こちらは観ているだけなのに、映像に触発されて、じっと自分自身の内面を見つめてしまう。
人と接したり、セックスをしたりしても、なんだか虚しいと思ったときに、本書や監督の作品は優しく寄り添って、人間の自然な活き活きとした姿を、「こんな風にしてもいいんだよ」と感じさせてくれる。
(平成27年10月、カウンセラー)