ブライアン・フェイガンが人類と動物の関係史を書いたというので、私は興味津々で本書の原書となるThe Intimate Bond──How Animals Shaped Human Historyのページをめくってみた。ところが、人類の歴史を変えた動物として彼が選んだ8種類のリスト、犬、ヤギ、羊、豚、牛、ロバ、馬、ラクダを見て、はたと考え込んでしまった。牛馬と犬、それに豚はともかく、ヤギに羊にロバ……。ラクダにいたっては実際に見たこともない。これでは、「人類の歴史なのに、日本のことが一つも書かれていない」という、読者からの批判が聞こえてきそうな気がした。
日本人にとって歴史的に身近な動物はなんだろうか。シカにイノシシ、クマ、サル、キツネ、タヌキ、カモシカ、キジあたりだろうか。いずれも野生動物で、狩りの獲物であっただけでなく、信仰の対象であったりもする。いまでは日本人も、豚肉、鶏肉、牛肉、乳製品や卵などを日々食べているが、これらの家畜の生産現場を見ることはまずなく、私たちが知っているのは包装された食品でしかない。家畜が人類の歴史を変えた、と言われても、なんともピンとこないのが、大方の日本人ではないだろうか。
著者のブライアン・フェイガンは人類の歴史を数百年、数千年という長いスパンで俯瞰し、気候変動、水や海洋との関係といった斬新な視点から描いてきたイギリス出身の考古学者および人類学者だ。若いころはアフリカで考古学のフィールドワークをし、カリフォルニア大学で教鞭をとるようになってからは、アメリカ大陸の先住民の研究が中心になっていたので、家畜史の専門家というわけではない。むしろ、長い研究生活のなかで、人類の歴史に家畜がはたしてきた大きな役割を著者が再認識したことが、この本を執筆した動機のようだ。
本書では、狩猟民がなぜ、どのように野生動物を手なずけ、育種するようになったのか、それが人間と動物の双方にどのような影響をもたらしたのか、という大きな流れを追うことで、家畜がいなければ歴史は変わっていたという意外な事実を読者に突きつける。著者が追うテーマの多くは、文献はもちろん、考古学的な物証もほとんど残らない人類の生活を解明することなので、そのためには近代や現在の狩猟民や遊牧民、牧畜民の風習からの類推が欠かせない。そこに彼自身が若いころアフリカで体験した野生動物とのかかわりや、近代の人類学の研究、現代の畜産家の経験などが大きな意味をもってくる。
畜産というのは農耕と同様に、人類が自然の生態系を外れて、食糧を生産しだしたことなのである。そのために環境収容力を超えて人口を増やすことにもつながり、蹄のついた生きた財産として所有し蓄財することが可能になり、牧草地という広大な土地の所有権の意識を芽生えさせることにもなった。大型の家畜は、産業革命によってエンジンが発明されるまでは、交通機関であり、耕作機械であり、動力や兵器でもあった。広大な距離を容易く踏破できる馬やラクダやロバを使いこなすことがなければ、人類は徒歩で移動できる範囲に留まったはずであり、自給自足できない土地でも岩塩を採掘し、交易することで生活するような事態にはならなかっただろう。
日本人は世界でも珍しく、明治時代までほとんど畜産に携わらなかった民族だが、本書を読むことで、こうしたごく基本的な事実を改めて見直すようになるのではないだろうか。そこから、日本がこれほど特殊な歴史を歩んできた理由が見えてくるに違いない。
調べてみると、著者が選んだ8種類の動物はいずれも、日本列島にそもそも野生種がいなかったか、オオカミやイノシシのように野生のものはいても、日本人が家畜化することはなかった動物だった。日本犬は縄文人がアジア大陸から一緒に連れてきたと考えられている。馬は氷河期には日本列島にもいたとされるが、3世紀末に魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれたように、牛馬はこれらの大型動物を少なくとも数頭は乗せて荒海を渡れる船が建造できるようになった4世紀ごろに朝鮮半島経由で渡ってきた、という説が有力のようだ。
以前、縄文や弥生の遺跡から牛馬の骨が出土したことがあり、牛馬は縄文時代からいたと考えられていたが、考古学の技術が大いに進歩した現在では、後世の動物の骨が偶然に交じった可能性が指摘されている。豚や鶏のような小型動物は、弥生時代に農耕の伝播とともに渡来したが、食糧として本格的に利用されるようになったのは、江戸以降だったという。そうなると、『古事記』や『日本書紀』のなかでスサノオが天の斑馬を逆剝ぎして投げ入れたり、保食神(うけもちのかみ)の頭の頂が牛、馬になったりしたのは、いったいいつの時代につくられた話だったのか、気になるところだ。
1万年以上にわたって動物と密接にかかわり、手なずけ、管理してきた人びとと、野山にいる動物と一定の距離を保ち、いわば共存してきた民とでは、考え方や生き方におのずから大きな違いがでてくるだろう。家畜化とは、つまるところ野生動物を人間の都合に合わせて従順な生き物につくり変え、神に代わって人間がその繁殖を支配することなのだ。余剰の雄は去勢して肉にし、皮も骨も腱も糞も、余すところなく利用する。
本書の最後では、工業製品と化す家畜の実態や、それとは好対照に溺愛されるようになるペット、近代以降の高性能の武器で大量に虐殺されていった軍馬、いまも物議を醸しつづけるトロフィー・ハンティングの問題などを考察し、そうしたことへの反省から生まれてきた動物の権利や動物福祉の考えについても触れている。
現代の日本人はわずか150年のあいだに、表面的には国民一人当たり年間50キロ前後の肉を消費して、ヨーロッパ諸国並みの食生活を送るようになった。本書を読むことで、いまや当たり前となったそんな日常を振り返り、日本人とは何かを考え直し、地球を埋め尽くす70億もの人類の行く末を考えるきっかけとなれば、訳者としてもうれしい。フェイガンの作品を訳すのはこれで六冊目となる。私のものの考え方は、翻訳の仕事を通して出合った彼の著作によって築かれたようなものだ。
2015年12月 東郷 えりか