「おべんとう」と聞いて、あなたはどんなおべんとうを思い浮かべるだろう。手作り弁当、コンビニ弁当、駅弁、行楽弁当…。「おべんとう」と一口に言っても、その幅は広く、さらに「おべんとう」の “向こう側”に想いを馳せると、そこには果てしない世界が広がっている。
本書は、お弁当箱に詰め込まれた色とりどりのおかずを1つ1つ食べていくかのように、「おべんとう」に紐づく多種多様なテーマを取り上げている。そして食べ終わった(読み終わった)後のカラのおべんとう箱に、日本社会が浮かび上がってくるような一冊である。
おべんとうに詰まった日本の美意識
おべんとうの起源については諸説あるが、一説には「弁当 」という語は「分かち當(あ)てる」、すなわち細かく区分けすることの意味だったという。確かに、パッと思い浮かぶ模範的なお弁当は、多種多様なおかずが、限られたスペースのなかに、うまく小分けされて、きっちり詰められているイメージがある。この「小さくして、 仕切りのある器に上手に分かち當てる」ところに、カワイイもの・小さいものを好む日本人の「縮み志向」が表れていると筆者は説く。
日本のおべんとうの典型と言える幕の内弁当には、異質なものを貪欲にとりこみ、それぞれの特性をすべて活かす日本的発想が見られる。同時に、材料の入手が容易かどうか、コストが見合うかなどを即時即興的に判断する「まにあわせ」の術も詰まっている。
小さな箱の「おべんとう」のなかに詰まった日本的志向や美意識。それらが、いまや外国語の辞書に「BENTO」という言葉が載るほど、日本のおべんとうが世界的に知られるようになった1つの所以かもしれない。
おべんとうは社会の縮図
かつて、おべんとうは移動する厨房・台所として「行厨」とも呼ばれていた。もともとは、旅や労働に出かける際に携行するものとしてはじまり、次第に、舟遊びや芝居といった行楽に、そして通勤、通園・通学用へと目的が多様化していった。こうした目的の多様化と技術の進歩により、容れ物は笹の葉からアルミやプラスチックへ変わり、すべてを手作りしていた中身も、冷凍食品が大躍進している。冷めることが前提だった時代も電子レンジの登場で終焉し、そもそも自分たちで作らずとも、手軽にコンビニで買えるものになった。
そうした、おべんとうに生じた変化の1つ1つには、核家族化や女性の社会進出など、社会的背景が紐付いている。社会の影響を受けて、おべんとうが変化し、おべんとうが変化すると、逆にそれに合わせた新しい商品・製品がつくられ、社会に新しい潮流を生み出すこともある。こうした、おべんとうと社会の間に生まれる「循環」は非常に興味深いが、具体的なエピソードは本書に譲ろうと思う。
おべんとうのコミュニケーション
おべんとうは、社会と私たちの間の媒介となるだけでなく、私たちの間、人と人とのコミュニケーションを紡ぐ媒介でもある。
全日空の機内誌に連載されているエッセイ『おべんとうの時間』は、すでに3冊の書籍になり、累計10万部売れる人気ぶりだ。このエッセイでは、「おべんとう」「おべんとうの持ち主」、そして「おべんとうを食べる姿」の3枚の写真と、取材をまとめた文章が載っている。出発点はおべんとうだが、おのずと、家族のこと、仕事のこと、暮らしているまちのことへと話が及ぶ。そこには、おべんとうの持ち主の人生観や生き様がにじみ出てくる。
そもそもおべんとうは、作り手が食べる人のことを思いながら作られ、食べる人は作り手を感じながら食べる。完食することが食べ手から作り手への感謝の示し方であり、作り手は空っぽになったおべんとう箱を見て、安心したり喜んだりする。筆者はこう語る。
あたりまえのようにくり返される、おべんとう箱のやりとりは、私たちにとって重要なコミュニケーションの一部だと言えるだろう。そうしたコミュニケーションに、唯一の(目指すべき)「お手本」などないはずだ。「レシピ本」のような「お手本」に照らして、おべんとうの上手下手を語るのではなく、どのおべんとうにも個性があるということ、その個性は自分と人びととの関係がつくり出しているということに、もっと自覚的でありたいと思う。
このように、作り手との関係性を感じられれば、たとえ一人で食べる「個食」ではあっても、
そのことに寂しさや不安を覚える「孤食」にはならない。また、おべんとうの蓋を開けて、誰かと一緒に食べることは、自分自身のプライベートな一面を外に向けて「開く」ことにもなる。おべんとうを通じて、ゆるやかに「自己開示」が促されることで、一緒に食べる相手とのコミュニケーションも育まれやすくなる。
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おべんとうの小さな箱の中には、底なしと思えるほどの、社会の縮図と、人と人との関係性が詰まっている。まとめに代えて、1つの詩を載せたい。子供たちが買い出しから調理、箱詰め、片付けまでおべんとうづくりの全過程をおこなう「弁当の日」という取り組みがある。それを始めた香川県綾川町滝宮小学校の竹下和男校長(当時)が、「弁当の日」を2年間経験した卒業生たちに贈った詩の一部だ。おべんとうの「可能性」をきっと感じられるはずだ。
食事を作ることの大変さがわかり、家族をありがたく思った人は、優しい人です。
手順良くできた人は、給料をもらう仕事についたときにも、仕事の段取りのいい人です。
食材がそろわなかったり、調理を失敗したりしたときに、献立の変更ができた人は工夫できる人です。
友達や家族の調理のようすを見て、ひとつでも技を盗めた人は、自ら学ぶ人です。
かすかな味の違いに調味料や隠し味を見抜けた人は、自分の感性を見かける人です。
旬の野菜や魚の、色彩・香り・触感・味わいを楽しめた人は、心豊かな人です。
一粒の米、一個の白菜。一本の大根の中にも「命」を感じた人は、思いやりのある人です。
スーパーの棚に並んだ食材の値段や賞味期限や原材料や産地を確認できた人は、賢い人です。
食材が弁当箱に納まるまでの道のりに、たくさんの働く人を思い描けた人は、想像力のある人です。
自分の弁当を「おいしい」と感じ「うれしい」と思った人は、 幸せな人生が送れる人です。
シャケの切り身に、生きていた姿を想像して「ごめん」が言え た人は、情け深い人です。
登下校の道すがら、稲や野菜が育っていくのをうれしく感じた人は、慈しむ心のある人です。
「あるもので作る」「できたものを食べる」ことができた人は、たくましい人です。
「弁当の日」で仲間が増えた人、友達を見直した人は、人と共に生きていける人です。
調理をしながら、トレイやパックのゴミの多さに驚いた人は、社会をよくしていける人です。
中国野菜の安さを不思議に思った人は、世界をよくしていける人です。
自分が作った料理を喜んで食べる家族を見るのが好きな人は、人に好かれる人です。
家族が弁当作りを手伝ってくれそうになるのを断れた人は、独り立ちしていく力のある人です。
「いただきます」「ごちそうさま」が言えた人は、感謝の気持ちを忘れない人です。
家族が揃って食事をすることを楽しいと感じた人は、家族の愛に包まれた人です。おめでとう、これであなたたちは「弁当の日」をりっぱに卒業できました。