読んだ本の内容をよく忘れてしまうのが悩みである。驚いたり、ジーンときたり、時を忘れたり、吹き出したりといった体験そのものが読書の醍醐味ではあるけれど、思い出したい時に要点をスッと引き出せるようになりたい。そうすれば、読んだ後も楽しめる。
そのことを特に感じるのが、誰かと話している時だ。話の流れに「この前読んだ本に書いてあったこと」がはまりそうだと思う瞬間はよくあるが、それをすらすらと説明するのはなかなか難しかったりする。オススメしたい本がパッと浮かんだ時も、「何が」「どう」面白かったのかポイントがすぐに思い出せず、結局言わずじまいなんてこともあった。
本書を読んで、その原因が「分類意識の低さ」にあるのかもしれないと思った。読書以外にもあらゆることに言えるが、何かインプットをする時には、意識をどう持つかで染み込み方が変わってくる。それがうまい人とそうでない人では何が違うのか? 経験から上手に吸収するには何を意識すればいいのか? そんな問いを考えるキーワードこそが「分類」なのである。
そもそも分類とは何なのだろうか。著者は、分類とは「似て非なるものの違いや差に気づいて、分けること」だと定義する。
人は何かを決断しようとしたり分析しようとしたりする前に、まず分類をしている。お昼はご飯にするか、パンにするか、麺にするか……。あの本が売れている理由は内容の面白さにあるのか、著者の人柄にあるのか、宣伝の巧みさにあるのか、値段にあるのか……。「決断の前に分類あり、分析の前に分類あり」と著者が言うように、分類は無意識のうちにすでに行われている。
それを意識的に行い、「分けている」ことをはっきり自覚するのが分類脳への第一歩だ。何かを見たときに印象に残るポイントを覚えておいたり、複数の選択肢から「なぜそれを選んだのか」を具体的に理由付けしたりといった「インプット時の意識的な分類」ができていると、物事のつながりに気づきやすくなるし、アウトプットもスムーズになる。
著者は分類を考えるときに大きな「タンス」を思い浮かべるという。脳内全体がリビングルームで、そこの広い壁全面が引き出しになっているイメージだ。そのタンスの中に、今まで目にしたり認知したりしたあらゆるものが納められているという意識を持つ。
分類がうまくできている人は、自分の中に基準や尺度が明確にできてくるので、瞬時にブレのない判断を下せる。さまざまな世界において「センスがいい」と言われる人がいるが、それも「数多くの分類を繰り返すことで基準や尺度をシェイプアップしてきた」からなのだと著者は説明する。よく言う「頭の回転がはやい人」も、その正体は「分類がうまい人」というのが本当のところなのだろう。
では、分類脳を鍛えるにはどうすればいいのだろうか。これは意識して地道にやっていくしかない。自分の興味があるものはもちろん、ないものについても、これはこのゾーンに入るんだなと分類しまくることで、脳内に見取り図ができてくる。街を歩いている時にすれ違う人の顔や持ち物、服、走ってくる車の種類、電車では中吊り広告など、材料は日常にたくさん転がっているので、やろうと思えばいくらでも分類できる。
自分が感じたり選んだりしたことについて「理由の分類」をすることも重要だ。「いいな」と思ったものがあったら、その理由を「インスピレーション」でおしまいにせずに、基準や尺度まで掘り下げる。まずは考えられる要素をいくつかの方向に分類して、どれが自分に響いたのか、言語化するクセをつけることで、何が「良い」ものなのか基準ができるし、自分に対して分類を行えば、思考のクセが見えてくる。
判断のスピードが上がる、目利きができるようになる、アウトプットがスムーズになる。分類のメリットは多岐に渡るが、それらはつまり「自分の中のロジックができる」ということだ。これこそが、分類することの一番の効用だと著者は言う。自分のロジックが確立されていれば、いちいち自分の判断に納得することもできる。
こうした話は言葉にすると当たり前に思えるが、実際に普段どれだけ分類をしているのか考えてみると、自分の「なんとなく」の多さに気づかされる。昨日会った人がどんな服を着ていたのか覚えていないし、食べるものもその時々の気分で適当に決めていることが多い。
分類には、既存の分け方を知るだけでなく、自分だけの分類を創り出すという楽しみもある。それは新しい視点を見出すことと同じだ。もちろんそれも、数多くの分類が蓄積されていて、それに「当てはまらない」と感じるからこそできることである。
ここまで分類について色々と書いてきたが、実は著者が一番伝えたいことは別のところにある。著者は「分類」という言葉自体をも分類してしまう。それは、「目的のある分類」と「目的のない分類」である。なんと、著者が最も伝えたいのは後者なのだ。本書の真の魅力は、目的を持たずに「分類という行為自体を楽しむ」という発想が唱えられているところにある。
分類に目的を求めないという主張は、分類という言葉のイメージをがらりと変える。パズルやゲームを楽しむようにやっていく。そうするうちに様々な分類ができあがっていって、細かな違いに気づけるようになる。その発見する喜び、ワクワクが先にあってこその分類なのだ。きりがないので書かなかったが、趣味の草野球で使うグラブをポジション別に5個持っているとか、ダジャレの構造を14分割で把握しているとか、分類好きにもほどがある著者自身の話がごろごろ出てくる。実際に読んでみると、タイトルから想像するよりも随分ゆるくて読みやすい内容だと感じるだろう。
分類自体を目的にすると、ついには分けられなそうなものまで無理矢理分けようとすることになる。著者は過去に編集した『飛行機の乗り方』(ダイヤモンド社)という本で、あれこれ章分けを考えた挙句に「ヒコーキ」を4つに分けて「ヒの章」「コの章」「ーの章」「キの章」を作り出したという。著者のように「息を吸うくらいの勢いで分類」するようになると、こうした離れ業も可能になるのだ。
読後には身の回りにあるものすべてが分類の材料に見えてくるだろう。すでにある分類を知る、あるいは自分で分類をつくってしまうことで、新しい認識が生まれてくる。軽いビジネス書のような体裁でいて、実は思考や知覚の本質について書かれた本なのかもしれない。
入浴剤、ヒゲ、歌舞伎の隈取、グラビアタレント、キャンディーズの曲の「コール」など、分けても正直役に立たないあれこれを、マトリクスや円グラフ、棒グラフ、系図、集合図などで分類し、その傾向や属性を分析した一冊。「分類王」の肩書きを持つ著者の本領が発揮された奇書。「電車で読むと後悔する本」に分類できる。