プロレスに興味が無い、若い世代にとってジャイアント馬場の印象とは「動きが緩慢な巨人レスラー」程度かもしれない。だが、1960年代、馬場は日本人離れした209センチの長身を武器に「東洋の悪魔」として恐れられ、全米のマットを席巻した。ニューヨークの「マジソン・スクエア・ガーデン」でメーンを張り、目の肥えた米国のプロレスファンを熱狂させた。
帰国するまでに、稼ぎ出した金額は当時の日本円にして1億円とも数億円とも言われる。こうした経緯は馬場の自伝や大著『1964年のジャイアント馬場』に詳しい。本書は、プロレスラーに転身する以前に焦点をあてたことで知られざる馬場の実像に迫る。
本書のタイトルからもわかるように、馬場は1955年から59年までプロ野球の投手として読売ジャイアンツのユニフォームを着た。未完の大器と期待され、二軍では幾度も表彰選手になりながら、宿舎の風呂で転倒して腕に大けがを負って、引退に追い込まれたというのが通説だ。また、実力がありながらも、首脳陣やコーチに巨体から「キワモノ」扱いされ、一軍で十分な機会に恵まれなかったことも背景にあったとの指摘も少なくない。
実際、一軍での登板記録は57年のみで3試合で0勝1敗。投球回数は7回。自責点1。58年には二軍で18試合に登板し7勝1敗のキャリアハイの成績ながら一軍に上がることはなかった。実力以外の何かが作用していたとの指摘はうなずける。
「果たして野球人の馬場とはどんな選手だったのか」を解き明かすのが、本書の大きな狙いの一つだ。著者は約半世紀前の記録をひもときながら、当時のチームメイトに取材することで、野球人馬場の立ち位置を再定義する。そこには馬場正平から国民的スター「ジャイアント馬場」への階段が透けて見える。
「未完の大器」との評価もあった馬場だが、素質だけで入団したのは間違いない。
何しろ硬球をはじめて触ったのは、巨人入団の1年前。野球部で活動したのは3カ月前に過ぎない。しかも、そのレベルは地方大会の1回戦で負ける程度。本来なら、プロ野球入りなどあり得ないクラスの選手だったのだ。スカウトや首脳陣は、馬場の巨体に可能性を感じ、獲得した。当時の記事にも『まだ海のものとも山のものともわからない』というのがある
入団一年目から(記録が残っている二軍戦2試合で)6・2回を投げ、自責点2、防御率2・57、勝敗つかずの成績を残した。素人同然ながらの入団を踏まえれば滑り出しとしては悪くない。
とはいえ、時代がプロ野球が人気が爆発する前夜であることを割り引かなければならない。馬場の入団二年目から二軍戦は公式戦がなく、各球団が対戦相手を求めて転戦し、独自に試合を行う形式になった。選手数が多く、資金も潤沢だった巨人は試合数をこなしたが、二軍を持っていない球団もあったほど。馬場の二軍での最多勝や最優秀投手というのもあくまでも球団内の表彰というのが正しい理解につながる。
当時のコーチの評価は手厳しい。二年目を迎えるシーズン前の寸評は「肩の筋肉など幼稚園級」と一軍の戦力にはほど遠い。馬場と同期の捕手で最も多く球を受け、後にスカウト部長を務めた加藤克巳は球は速くなかったが、重くコントロールは良かったと振り返る。ただ、馬場を二軍のエース級と位置づけることには、「それはちょっと言いにくい」と述懐する。手が大きすぎるため、わしづかみにして投げていたため、現代で言うチェンジアップが主体。変化球も豊富でなく、球速もない変則投手が当時の野球界で主流になれたとは考えづらい。
馬場の能力と関係なく、当時のジャイアンツに大きな障壁が横たわっていたのは事実だ。一軍、二軍の区別があいまいだったチームが当時は少なくなかったが、巨人の一軍と二軍の入れ替えはシーズン中は非常に少なかった。春季キャンプ後に二軍にいた場合、その年の昇格を諦める選手が大半だった。馬場と同時期に二軍にいた投手の三浦方義は巨人では0勝に終わりながら、他球団に移籍後、一軍で最多勝を獲得したほどだ。
背景には巨人内部の派閥争いがあり、二軍指導者の一軍への反目があった。巨人の場合、二軍でも興行が成立するため、二軍首脳陣が人気選手を手放さないという歪んだ構造があった。そして、この歪みこそがジャイアント馬場の誕生につながったと言っても過言ではない。
巨体から強烈な印象を残す馬場は地方に遠征すると、ブルペンで投げるだけで観客が沸いたという。「二軍で最も客を呼べる人気選手」に成長した馬場は一軍と独立採算を求められる二軍首脳陣にとって欠かせない存在になっていた。
地方遠征時にはプロモーターが「馬場は出るのか」と問い合わせてきた。馬場の出場が未定のために遠征の日程が確定しないこともあった。馬場を巡っては前述のように、キワモノ扱いされ、観客の注目を一身に集めることが首脳陣に嫌われたという指摘もあるものの、興行を重視する二軍首脳陣は馬場を歓迎していた可能性が高い。そして馬場も自らを客を呼べる選手であったことに自覚的だったことを本書は示唆する。
見世物の自分に悩んだことは少しはあるだろう。実際、馬場は少年時代に脳下垂体腺腫を発症し、身長が異常に伸びる巨人症に罹ってから苦悩の半生を過ごしてきたと思われがちだ。本書では少年時代からプロ野球入団前の馬場の人生も追っているが、我々の先入観を裏切るように、彼の少年時代や青年時代は常に前向きで、ひたむきで明るい。著者が言うように「巨人の宿痾」はない。もちろん、思春期には葛藤を抱えていたがそれは馬場に限らない話だろう。周囲の人々にも恵まれ、境遇が変わるたびに軽く乗り越せるしたたかさも併せ持った。自分の特徴をマイナスでなくプラスに転化してきたのが馬場の人生であることを本書は浮き彫りにする。
人気球団の読売ジャイアンツに入団したがために、長年の二軍暮らしを強いられたが、興行として最も成功していたジャイアンツに入ったことで自己プロデュースの一歩を踏み出せたのは間違いないだろう。著者が指摘するように、馬場正平にとって「巨人軍の巨人」時代はジャイアント馬場に進化する貴重な助走期間だったのだ。