2008年8月、カナダ人女性がソマリアでイスラム過激派に拉致された。身代金目的で監禁され、繰り返し拷問や暴行を受ける悪夢のような日々を過ごしたのち、2009年11月に解放される。460日間にわたった壮絶な体験を本書で語るのはアマンダ・リンドハウト。拉致されたときは27歳だった。
アマンダは「使命感を持って戦場に行ったジャーナリスト」ではない。旅慣れているほかはごく普通の女性で、危険を承知でソマリアに行ったのも何か高尚な考えがあってではなく、単に自分のしたいことをするために行ったのである。ソマリアの状況をろくに知らず、安易に渡航を決めるくだりは読んでいるこちらがはらはらする。
しかし背負うものがなかったからこそなのか、監禁されて自由に動けなくなり、精神的にも追い詰められてからのアマンダの語りは澄みきり、力を増していく。とくに原書のタイトルでもある<天空の家>を建てる場面は圧巻だ。自分の弱さを取り繕わず、ありのままを語るアマンダの声はまっすぐ心に響いてくる。
カナダの田舎の小さな町で育ったアマンダはいわゆる複雑な家庭環境の出身で、幼いころ母親が同棲相手からたびたび暴力を振るわれていたことや、そんな家庭に漂っていた重苦しさを鮮明に記憶している。家も貧しく、アマンダは近所のゴミ収集箱から瓶や缶を集めて回収所に持って行き、小銭と交換してもらっていた。少し貯まると町のリサイクルショップで『ナショナル・ジオグラフィック』誌のバックナンバーを買う。美しい異国の写真は、いつか自分が行く別世界への入り口だった。自分のほんとうの居場所はこの家ではない、どこか別にあるのだ。
19歳で親元を離れ、カルガリーでウェイトレスとして働き始めた。初めてまとまった額の金を手にすると、迷うことなく『ナショナル・ジオグラフィック』の世界を見に行こうと決める。それからは、カルガリーで働いて金を貯めてはバックパッカーとして数カ月間の旅に出ることを繰り返し、7年間で50か国ほどを回った。
あくまで自分の好奇心を満たすために旅をしていたアマンダだが、アフリカでちょっとした転機が訪れる。エチオピアで会った駆け出しのオーストラリア人カメラマンに触発され、自分も珍しい土地の写真を撮れば売れるのではないかと思いついたのだ。このときは、職業としてフォトジャーナリストを選んだというよりは、次の旅の資金を得る手段として写真を売ろうと考えたのだった。
そんな軽い動機が、のちの人質事件につながっていく。なにしろ、写真はそう簡単に売れないのだ。買い手を探すうちに見えてきたのが、需要があるのは戦場の写真であること。それなら戦場に行ってこようと思い立ったアマンダは、まずイラク、それからアフガニスタンに滞在し、次にソマリアに着目した。
内戦が続くソマリアでは、とくに欧米人が武装組織に身代金目的で拉致される危険が非常に高かった。国際援助団体も多くが撤退し、外国の記者もほとんど入っていない。この時点で故郷の小さな町の新聞(発行部数1万3000部)にコラムを週一で連載するのが唯一の仕事だったアマンダにとって、競争相手がいないのは魅力だった。短期で滞在し、何か大きな記事を大手メディアに売って仕事を軌道に乗せよう、そんなふうに考えたのである。
しかしソマリアに入って3日目、国内避難民キャンプに行く途中でイスラム過激派に拉致され、苦難の日々が始まった。食事は日に2度、少しだけで、外にはめったに出られない。待遇の改善を期待してイスラムに改宗したがたいした効果はなく、やがて監視役の少年にレイプされるようになる。
2009年1月に脱走を試みてから状況はいっそう悪化した。足枷をはめられ、レイプに加えて拷問も始まった。与えられる水や食べ物の質もさらに落ち、身体はぼろぼろ、窓も閉め切られて陽の光を見ることもなく、まさに暗黒の毎日。そんなとき、アマンダは心の中に階段を作る。
階段の先にはいくつもの部屋が見える。天井が高く、大きな窓がついた風通しのいい部屋で、涼しいそよ風が入ってくる。部屋を抜けると、光とともに別の部屋があらわれ、そうするうちに、いくつもの廊下と階段を備えた一軒の家ができあがった。(中略)心のなかの広々とした空に、わたしが暮らす場所ができあがった。(中略)<天空の家>では、わたしは安全で守られていた
幼いころ『ナショナル・ジオグラフィック』を見て現実のつらさから自分自身を切り離したのと同じように、くじけそうになると<天空の家>に行き、苦しいのは身体だけ、それ以外の自分は大丈夫、と言い聞かせたのである。そうして生きる意思をなんとかつなぎ、とうとう解放の日を迎える。
自由の身になったのを実感できるまでには時間がかかった。本書執筆中もアマンダはさまざまなトラウマに苦しんでいたという。しかし早くも2010年にはソマリアやケニアの女性の教育支援などを行なう非政府団体を設立し、翌11年にはソマリアを再訪問してもいる。人質としてひどい目に遭った女性では終わるまい、そんな思いが伝わってくる。
本書は人質の体験記であると同時に、ひとりの人間が絶望的な状況のなかで、自分を人間たらしめている力を見出していくストーリーでもある。静かな力に満ちた、おすすめの一冊だ。