量子力学が描き出す世界はあまりに奇妙だ。量子は波であると同時に粒子であり、壁をすり抜けることができ、いったんペアになった粒子同士はどれだけ遠く離れていても瞬時にコミュニケーションが取れるというのだから、すんなり納得することのほうが難しい。どれだけ信じ難くとも量子力学を支える科学的証拠はゆるぎなく、論理的にも強固である。DVDもMRIもスマホも量子力学がなければ実現しない。
現代生活に欠かせない存在となった量子の力は、最先端テクノロジーによって初めて活用可能となったのだろうか?そうではないという事実を突きつける現象が、あちこちで報告され始めている。渡り鳥が進むべき方向を知るためにも、植物が光合成を行うのにも、酵素がその能力を発揮するのにも、量子の世界の法則が重要な役割を果たしていることが明らかになったのである。つまり生命は、人類が20世紀になったやっと気がついた、量子的性質を長い進化の間に巧みに活用する術を身につけていたというのだ。
本書では英国サリー大学理論物理学教授ジム・アル=カリーリと同分子生物学教授ジョンジョー・マクファデンが、生命と量子力学の驚くべき関係を示す様々な事例を、量子力学と古典的物理学の世界がどのように異なるかという解説とともに教えてくれる。量子力学といっても複雑な数式はほとんど登場せず、巧みな比喩とともに議論が展開していくので、生命の本質に迫るエキサイティングな物語を読んでいるような感覚で読み進めることができるはずだ。
量子の言葉で生命を描き出そうとする「量子生物学」はまだ産声を上げたばかりの新しい分野である。並外れた主張には並外れた証拠を提出するのが科学界のルールだが、量子生物学はまだその証拠を集め始めたばかりであり、本書で提案される大胆な仮説にも確たる証拠がない場合が多い。そのため著者は、どのような現象が確かなものなのか、そのどこまでが量子の世界に疑いなく還元されるのか、どこからが仮説に過ぎないのかを丁寧に切り分けている。少しずつ科学界で受け入れられ始めた証拠をもとに、本書で提案される途方も無い主張はあまりにも刺激的だ。新たは分野の科学が生命の新たなカタチを提案してくれるのではないか、という期待を抱かせてくれるのだ。
著者は、「生命は量子の縁に生きている」と考えている。
どうやら生命は、一方の足を日常の物体からなる古典的世界に置き、もう一方の足を奇妙で変わった量子の世界の深淵に据えているらしい。
どんなものでも、突き詰めれば原子(もしくはそれを構成する素粒子)から成っているのだから、ミクロなスケールで生命が量子力学と関係しているのは当然であり取り立てるほどのことではない、という批判も量子生物学には向けられるという。しかし、量子生物学が対象とする事象の着目すべきところは、「細胞の内部という温かく入り組んだ環境のなかで壊れやすい量子もつれ状態が存在しつづけ」ているというところにある。通常我々が量子もつれ状態を実現するために極低温かつ高真空状態を用意しなければならないことを考えれば、生命がどれほど驚くべきことを実現しているかがうかがいしれる。
本書で最初に取り上げられるのは、ヨーロッパコマドリの地磁気の方向と強さを感知できる能力。動物が地磁気を知覚できるという事実も大変な努力の末に導かれた驚くべきものだが、より興味深いのは動物が地磁気を感知しているそのメカニズムにある。なにしろ地磁気の磁力は、冷蔵庫に貼り付ける普通の磁石の100分の1程度と非常に弱く、体内でのどのような化学反応も引き起こすことができないのである。鳥に体内には一体どれほどの秘密が隠されているのか。
鳥コンパスの謎のメカニズムに対する仮説が提唱されては否定され続けていた1978年、ドイツ人化学者クラウス・シュテルンが大胆な提案を行った。その「鳥のコンパスには量子もつれ状態にある遊離基のペアが使われている」という説はあまりに現実離れしており、多くの科学者から無視された。誰からも相手にされなかったシュテルンの説が大きく飛躍したのは20年後の1998年、ショジョウバエの目から概日リズムを担っているクリプトクロムという色素タンパク質が発見された年である。このクリプトクロムは光との相互作用で遊離基を発生させると知られていたのである。
もちろん、上記で抜き出した条件だけでシュテルンの説が確かめられたとはとてもいえない。その後の研究で、クリプトクロム分子に青い光を当てると長寿命の遊離基ペアが生成すること、特定周波数の磁場でだけ鳥の方向感覚が乱れることなどで徐々にシュテルンの説の確度は高まってきている。しかし、これで鳥のコンパスの全てが明らかになったわけではなく、量子もつれ説を決定打にするためには更なる証拠が求められているという。“鳥はどのように渡りをおこなっているのか?”というシンプルな疑問を徹底的に深く正確に追い求めていく本書を読み進めていくと、科学的仮説構築と検証プロセスをつい体験でき、その厳しさと面白さが痛感される。
議論が深まるにつれて著者の提案はより大胆に、より挑戦的なものとなっていく。そこでは、遺伝、ヒトの意志、生命の起源にまで量子的性質が重要な役割を果たしている可能性が示唆されている。それらの説にはこれからの検証が必要なもの、そもそも検証が不可能だと思われるものもある。言うまでもなく、著者はそれらが単なる推論に過ぎないことを承知している。しかし、想像の翼を目一杯に広げなければ真のイノベーションは生まれない。量子力学もその誕生時には多くの批判が向けられ、科学界から否定された。量子生物学は21世紀の生命の神秘に近づく鍵となるのか、それとも無謀な挑戦に終わるだろうか。著者は新たな分野の萌芽に以下のような言葉を添えている。
いまだ分かっていないことはあまりにも多いが、いかなる新たな研究分野でも、分かっていない事柄にこそ美しさがある。
本書で度々引用されるシュレーディンガーによる生命の本質に迫る一冊。
量子力学が誕生したさいの天才たちの白熱のバトルを巧みに描き出す。量子力学が苦手で敬遠していた人は、この本を先ず手にとって欲しい。量子力学をしっかり勉強してみたくなるはずだ。成毛眞のレビュー。
『量子力学で生命の謎を解く』ではファインマンの「作ることができないものは理解したことにはならない」という有名な言葉が度々引用される。ファインマンさんによる不朽の名作。