肥満の解決方法は、それほど複雑なものではない。食事の量を減らし、適切な運動を行えばよいのだ。しかしながら、世界中で多くの人々が肥満とそれがもたらす2型糖尿病などの病に苦しんでいる。解決方法が明らかなのにその実行が困難なのは、美味しく高カロリーな食事が街に溢れ、身体をほとんど動かすことなく一日を終えることができるほどにテクノロジーが発展したからだ。
なぜ、わたしたちは身体に害を及ぼすほど過剰に食事を求めてしまうのだろうか?
なぜ、わたしたちの身体は適切な運動なしには健康な状態を維持できないのだろうか?
この問に答えを出すためには、人体がどのようものであるかを知る必要がある。そして、人体の真の姿を知るためには、その進化の歴史を理解する必要がある。ハーバード大学人類進化生物学教授である著者は、人体600万年の歴史を丁寧に掘り起こしながら、ヒトが他の類人猿とどのように異なるか、二足歩行がどのような意味を持つのかなどを明らかにしていく。
本書では、遺伝学のパイオニアであるドブシャンスキーの「進化の光を当てなければ生物学において意味をなすものは何もない」という言葉がたびたび引用される。確かに、進化のレンズを通して人体をのぞき見れば、現代人を苦しめる睡眠不足、がんやアレルギーなどの真因が浮かび上がり、それに対処するためのヒントが得られるのだ。本書は人類進化の壮大な歴史から明日からでも役立つ生活の術まで、人体に関する広範な知恵を授けてくれる、一石二鳥とも三鳥ともいえる仕上がりとなっている。
人間の進化と健康と病を中核的テーマとした本書は、3部構成となっている。第一部「サルとヒト」は、チンパンジーともネアンデルタール人とも異なるヒトの身体がどのような環境に適応しながら現在の姿となったのかを追っていく。人体が進化してきた600万年の全体像を明瞭に解説しながら、進化という概念が本当はどのようなものであるかの理解を深めてくれるこの第一部は、人類進化を知る最良の教科書となるはずだ。この第一部は上巻に収録されているので、まずは上巻だけでも読んでみて欲しい。第一部を読み終わって第二部に進む頃には、続きが気になって下巻を購入しているはずだ。
第二部「農業と産業革命」では、「身体機能の多くが私たちのもともと進化した環境においては適応的だったが、いまの私たちが作りだしてきた現代環境においては不適応となっている」というミスマッチ仮説を概説しながら農業の発明から産業革命までの人類の苦闘を解説する。第三部「現在、そして未来」では、いよいよ議論の舞台は現在となり、現代に蔓延する病の正体とその対処方法が議論されている。
人体の進化をその起源からたどるとき、最初のトピックとなるのは二足歩行だ。著者は、「人類の系統に他の類人猿とは別の進化の道を進ませるきっかけとなった最初の決定版な適応が一つでもあるとするなら、それはおそらく二足歩行」だという。類人猿や犬だって一時的には二足歩行が可能であるが、人類の二足歩行はその常習性と高いエネルギー効率においてやはり特別なのである。類人猿は1日に3キロも移動しないが、現代の狩猟採集民は平均女性で9キロ、男性で15キロを移動するという。二足歩行は人類を、優秀な長距離ランナーへと変貌させたのだ。
長距離移動を可能にした二足歩行にも欠点がいくつかあり、最大速度の低下もその1つ。ライオンやシマウマと100m走で勝利できる人間などおらず、スピードの低下は致命的にも思える。なにしろ、1人のときにサバンナでライオンに遭遇すれば、高い確率で命を落とすことになるのである。なぜ、スピードを犠牲にしてまで、長距離移動性能が優先されたのだろうか。劇的に変化する環境の中で、どのような淘汰圧をくぐり抜け二足歩行が選択されたのか、というのはそれ単体でも一冊の本になる程に興味深いトピックでもある。著者は、多岐に亘るファクトを巧みな論理構成で繋いでいくことで、説得的な物語をつくり上げることに成功している。
進化の観点から人類の健康と病について考えるときに、大きなターニング・ポイントとなったのは、ジャレド・ダイアモンドが「人類史上最大の過ち」と呼ぶ1万数千年前の農業の発明である。農業は高密度のエネルギーを持つ澱粉という大きなメリットをもたらし、人口は爆発的に増加したが、高い人口密度で同じ場所に永住するという新しい生活様式は、虫歯に代表される多くのミスマッチ病や飢饉などの災厄をももたらしたのである。狩猟採集民では虫歯は非常に稀であり、多様な食材に頼っていたため大規模な飢饉は少なかったのだ。
農業よりもずっと最近の産業革命の影響も無視はできない。産業革命によって、私たちの食生活や移動方法だけでなく、「どのように体温を調節し、出産し、病気になり、成熟し、繁殖し、老いていくかも、どのように社会に適合するかも変わった」のだ。人類が何百万年も慣れ親しんできた狩猟採集生活と現代的生活のギャップの大きさを考、そこにミスマッチが発生しても不思議ではないと思えてくる。サンプル数は限られているものの、狩猟採集民には高血圧、骨粗鬆症、喘息、肝疾患などを患っている人はほとんどいないという。なぜミスマッチがこれほど大きくなってしまったのか、ミスマッチはどのようなメカニズムで拡大していくのか、そしてどのように乗り越えられるのかまで本書では議論されている。
著者は、狩猟採集民の生活が理想的である、などと主張しているのではない。むしろ本書を通して、ただ1つの最高に適した食事やエクササイズなどないことを強調する。それでも、ミスマッチ病に対処する方法が全く無いというわけではない。著者は、治療よりも予防への注力を訴えている。例えば、未成年者へのアルコール販売を禁止するのなら、ジャンクフードや糖分の過剰摂取も規制の対象と考えられるのではないか、と提案している。アルコールもジャンクフードも、中毒性があり大量摂取が健康に害を及ぼすという点では一緒だからだ。
600万年の歴史を身体という極めて具体的で、あまりに身近な存在に注目することで、人間という生物の輪郭をより濃く教えてくれる一冊である。
訳者あとがきはこちら。
人体の中でも目に着目し、その脅威の能力を明らかにしていく一冊。着実な研究成果を基に大胆に想像の翼を広げて魅力的な仮説を提唱するチャンギージーによる至高のサイエンス本。チャンギージーの研究は『人体600万年史』でも引用されている。レビューはこちら。
狩猟採集民時代からのヒトの戦争の歴史を振り返る。ヒトがいかにして暴力を抑えこんできたのかを知ることができる一冊。レビューはこちら。フレンシス・フクヤマの『政治の起源』やスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』と合わせて読むとより理解しやすい。
古代のDNAを復元するという途方も無い目標を達成するために、狂気とも思えるほどの努力をし、1つの科学分野を作り上げてしまった著者による自伝的一冊。このペーボの愚直な努力がなければ、『人体600万年史』の内容はもっと薄いものとなっていたかもしれない。分子古生物学者・更科功博士による解説はこちら。青木薫によるレビューはこちら。