『ヴィリー・ブラントの生涯』

2015年9月29日 印刷向け表示
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ヴィリー・ブラントの生涯

作者:グレゴーア ショレゲン 翻訳:岡田 浩平
出版社:三元社
発売日:2015-07-08
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第二次世界大戦に敗北した日本とドイツ。しかし、戦後70年の間に両国の歩みはかなり隔たったものになってしまった。財政黒字国のドイツと赤字国の日本。周辺諸国と歴史認識で軋轢の絶えない日本と融和を成し遂げたドイツ。その理由の1つは戦後の両国の指導者の違いに求められるのではないか。本書は、戦後のドイツを代表する政治家ヴィリー・ブラント(元はペンネーム、偽名)の本格的な評伝である。

ブラントは、トーマス・マンと同じくリューベックで婚外子として生まれた。ナチスの時代、ブラントはノルウェーに亡命する。ドイツから追ってきた最初のガールフレンドは、ヴイルヘルム・ライヒを追ってニューヨークに向かった。1941年、ブラントは年上のノルウェー人女性カルロータと最初の結婚をしてノルウェー国籍を得る(長女ニーニャを得る)。

ブラントは1人、ナチスに占領されたノルウェーを離れて、スウェーデンで社会主義者として戦う。ここで終生の友、クライスキー(後のオーストリア首相)を知る。戦後帰国したブラントは、48年にドイツ国籍を復活し、やはりノルウェー人の賢妻ルートと再婚する(3人の子どもが生まれた。幸せなことに、やがてカルロータ、ニーニャ、ルートは親しくなったのである)。「世界の果て」西ベルリンで社会民主党(SPD)の執行部に入ったブラントは、57年、西ベルリン市長に選ばれ、ベルリン危機の最中、冷戦の最前線で奮闘して市民の圧倒的な支持を得る。ブラントが後に戦後処理に真摯な態度で臨み東西の和解に漕ぎ着けた原点はここにあったのだ。

共産主義者としての過去を持ち表には立てないSPDの実力者ヴェーナーは、ブラントに目をつけ首相候補に押し立てる。こうしてブラントは69年、3度目の挑戦で頂点に登り詰めたのだ。SPD初の首相として、ブラントは東西の融和に尽力する。70年、「自然の成り行きから心体が動いた」ワルシャワゲットーでの跪きは、全世界に深い感銘を与えた。71年には東方外交でノーベル平和賞を受賞。71年には東西ドイツ基本条約を結び、第二次世界大戦後の秩序をすべて受け入れた。しかし、ボンでの政治的日常の陰鬱さは、「傷つきやすく神経質で争いを好まぬ」ブラントを蝕み、現実逃避傾向が強くなる。74年、個人秘書が東独のスパイであったことが暴露されると首相を辞任、シュミットに首相の座を譲ったが、87年までSPDの党首の座は手放さなかった(シュミットとの確執も興味深い)。76年には社会主義インターの議長に選ばれるが、旅好きのブラントにとっては水を得た思いであったろう。南北問題の大きさ、難しさにいちはやく警鐘を鳴らしたのはブラントだった。80年にはルートと別れて83年に3度目の結婚をしている。

本書は明晰で論理的な文体で、勝利と敗北を繰り返した1人の複雑な政治家の人生を見事に描き切っている。ブラントは、頻繁に旅をする人であり文章を書く人(回想録が5冊!)であった。

「前方に視線を向ける旅も、過去を振り返る回想も、もろもろの不安や苦痛、敗北をともなう現在から視線を遠ざけることなのであった。ブラントは80歳近い生涯のなかで、全体としてみるとこの二重戦略をきわめて巧みに使いこなしていた。この戦略のおかげでブラントは、生き長らえたし、結局はほかの人なら軌道から外れるようになったであろうことに耐えてこられたのである」、これが著者の総括である。

出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら

*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。

日本の未来を考えよう

作者:出口 治明
出版社:クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
発売日:2015-08-25
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