日本では馴染みがないが、神経犯罪学=neurocriminologyという分野がある。犯罪の原因には社会環境的な要因だけでなく、生物学的要因が密接に関わっているのではないかという見地から、遺伝的要因、胎児期・周産期の影響、外傷を含む後天的脳障害、自律神経系の異常、栄養不良や金属などの脳への影響などを研究する学問だ。
一般に凶悪な犯罪が起こった場合、虐待などを含む家庭環境や、貧困などの社会的環境を調べ、それを要因のひとつとする場合が多い。とりわけ裁判では情状酌量の証拠として提出されるものだ。たしかに、それによって社会的な環境が整備され、より良い社会を作ることはできる。
しかし、それは咳をして熱があるから風邪だと断定し、対症療法として解熱剤などを処方することに等しい。本来は風邪のウイルスを特定し、そのウイルスが体内でどのように作用しているかを知ることで、根本的な治療をするべきなのだ。(風邪ウィルスに対しても人類は決定的に有効な手立てを持たないのだが)
これを犯罪にあてはめると、たとえ虐待が要因だとしても、虐待によって脳のどの部位にどのようなダメージが引き起こされたかを知ることで、矯正や教育だけでなく、根本的に治療することができるようになるはずだと考えるのが神経犯罪学である。
本書はその神経犯罪学の権威が丁寧な解説を試みた良書だ。読者は読み進めるにつれ、多数の驚くべき重犯罪事例に呆然とし、著者の知見に唖然とするであろう。しばらくぶりに本当におススメできる本に出会った。
まずは、その驚くべき事例の一つを紹介してみよう。1962年生まれのジェフェリー・ランドリガンは生まれてすぐ母親に捨てられたが、幸いにも地質学者の健全な家庭に養子として引き取られた。しかし、2歳で抑えようのない怒りを爆発させるようになり、10歳で浴びるように酒を飲み、11歳で強盗。20歳ではじめての殺人を引き起こし収監。刑務所を脱獄しさらに殺人を繰り返し、死刑を言い渡された。
死刑囚として収監されている最中、彼に瓜二つの男がいることを知る。相貌だけでなく犯罪歴が脱獄も含めてほとんど同じなのだ。彼の父だった。それだけではない。彼の祖父も強盗犯であり警官に射殺されていた。幼児期の家庭環境より遺伝的要因が大きいのだろうか。そして遺伝的要因が大きいのであれば、刑務所での矯正は難しいのであろうか。
神経犯罪学はこのような一つの事例から仮説を導き出すようなことはしない。たとえばデンマークでは養子の犯罪事例を統計的に分析し、実の親と養子に出された子どもの犯罪率の相関分析が行われている。有罪判決を受けた子どもの12%の親には犯罪歴はなかったが、有罪判決を受けた息子の22%の親は3回以上の犯罪歴があったのだ。
オランダでは威嚇的で攻撃的な目つきをもつ一族が四世代にわたって調査された。15年かけて調査は行われ、驚くべきことに彼らに共通する生物学的要因が特定されたのだ。この論文は『サイエンス』に掲載された。その要因とはモノアミン酸化酵素を生成するMAOA遺伝子に欠陥があったというのだ。ちなみに、この「戦士の遺伝子」の基準率は民族によってかなり異なるという。人種偏見を助長するおそれがあるので、ここでは敢えてそのデータを書かないが、さもありなんという感想をもった。
これらの事例は犯罪遺伝子の存在というよりも、遺伝子の変異によって犯罪傾向が高まることを予想させるものだ。本書ではその犯罪傾向を持つ人物が、さらに社会的家庭的に虐待などを受けることで、犯罪実行に繋がることも多数の事例と研究成果を例示する。著者はその概念をバイオソーシャルという言葉で説明している。
もうひとつ事例を紹介しておこう。IQ129のITコンサルタントであるランディ・クラフトは1983年までに64回の連続殺人を犯していた。綿密に実行されていたため、警察の捕捉が遅れたのだ。いっぽうで、衝動的な殺人を繰り返す乱暴でだらしない殺人者もいる。その二人の脳の構造はどこが違っているのかを研究している神経犯罪学者もいる。
重罪犯刑務所での大規模なPETによる画像調査で、脳のどの部位の活動が亢進・低下しているか、または器質的な欠損などがあるかが判るようになってきているのだ。先天的な異常だけではない。本書では脳腫瘍が原因で人格が一変し、犯罪を犯すようになった事例も取り上げられている。もちろん脳腫瘍を手術で切除したところ、たちどころに犯罪傾向は消え去った。この事例の場合は、後日また腫瘍が大きくなるにつれ、犯罪傾向が戻っているので、単なる相関ではなく因果関係としてほぼ確実であろう。
反社会的な子どもは安静時心拍数が低いことがあるという。著者は過去のさまざまな研究からメタ分析を行い、心拍数と反社会的行動の相関は5%程度だとつき止めた。これは喫煙と肺がんなどの相関よりも強いのだという。安静時心拍数の低い人は予防的に心拍数を上げる薬などを服用する必要がでてくるのだろうか。
犯罪の根本的な要因が理解されはじめるにつれ、その社会的な対処法について議論が必要になることは間違いない。犯罪を引き起こしそうな人物を特定し予防的に治療するべきなのだろうか。連続殺人犯は神経犯罪学的にある種の患者であり、治療することで刑を免れることができるのだろうか。本書ではその結論は描かれていない。神経犯罪学はまさに諸刃の剣だからだ。
読者が学ぶことができるのは、神経犯罪学の現状だけではない。たとえば魚に含まれるDHAなどの栄養素やマンガンなどの金属類を口にすることによる影響など、とりわけ懐妊中や子育て中の家族にとっては今日の生活にも役に立つ情報も含まれている。
本書を読む余裕のない女性に対して一言だけ言っておこう。絶対にタバコを吸ってはいけない。1日に10本のタバコを吸う母親の子どもに4倍の行為障害が発生するというのだ。もちろん、この研究ではタバコを吸う母親の犯罪歴や養育能力などの第三要因はコントロールされている。つまりタバコを吸う母親は自堕落であり、正常な養育ができず、結果的に子どもに後天的な影響を与えたという要因は排除されている。もちろんアルコールも控えたほうがよい。
ともあれ、本書を読んで驚くのはアメリカにおける複数殺人犯、連続殺人犯の異常な多さだ。前述の64人を殺した犯人など珍しくないらしい。本文中で著者は「レナード・レイクという名を聞いたことがある人はほとんどいないはずだ」という。たった12人しか殺していないので連続殺人犯のなかで小物なのだというのだ。
それゆえにアメリカでこの分野の研究が進んでおり、一般の理解も深まっているのだろう。翻って日本では裁判でもメディアも、家庭環境の詮索でお茶を濁そうとしていう感がある。小児性愛者の連続殺人犯を化学的去勢(薬を定期的に飲むだけだ)もせずに、刑期を終えたからとして社会に出す危険が語られることはない。もしかして彼は脳に重大な損傷があるかもしれないのだ。本書はそのような状況に一石を投じることになるかもしれない。