読みどころ豊富なビジネス書である。ひとつのメッセージだけをパッケージにした軽い読後感のビジネス書とは、一線を画している。その読みどころはどれも質が高く、どれから紹介するか迷ってしまうほどである。でも、それを統べるのが「ドラマ思考」というキーワードだし、おそらく皆様もそれが何かを知りたいと思うので、まずは、そこから説明したい。
少し前に「プラス思考」が流行したときのことを、思い浮かべて欲しい。著者もそれを意識して生活していたそうだが、結果として他人の悩みが全く理解できなくなった経験があるという。そのときの反省をふまえ、試行錯誤を経てたどり着いたのが「ドラマ思考」である。「人生はドラマ、人は皆共演者」。嫌な人を退けるのではなく、共演者ととらえることで、人生というドラマを楽しむ生き方である。そもそも悪役がいなければ、ドラマは成り立たない。悪役は、いても良い。失敗があっても良い。そんなマイナス要素をも共演者として受け入れることで、人生は一変し、雑音に惑わされることなく自分の人生を歩むことができるようになるのである。
プラス思考の人に悩みを相談して、ピンボケな回答をされた記憶はないだろうか。その時相手は、口先では悩みに共感しながら、「そんなつまらないことで、なぜ悩むのだろう。もっと前向きに生きれば良いのに」と、心の底では思っていたのかもしれない。これをビジネス、とくにセールスの現場に置き換えるとどういうことなのだろう。
無理に売るな
客の好むものも売るな
客のためになるものを売れ
本書で引用されている、近江商人の商売の極意である。
お客様の悩みが理解できなければ、何がお客様のためになるのか想像できない。お客様そっちのけで自分の商品の良さをアピールし、売るのがゴールという“無理に売る”境地に陥ってしまうだろう。万が一、商談に成功したとしても、お客様との共感や感動といった次につながる素晴らしい体験は生まれないのである。つまり、セールスには相手の悩みを理解するためのアンテナが不可欠なのだ。著者は、この商売の極意を演劇とむすびつける。
演劇の世界には、世阿弥が伝えた「離見の見」という表現力の極意があります。
役者は舞台で3つの視点を持って演じています。
「我見」役者が観客を見る視点。主観的視点。
「離見」観客席から舞台を見る視点。客観的視点。
「離見の見」観客が自分を見る姿を自分が見ている視点。第三の視点。
世阿弥は自分が舞台で能を舞っている姿を、観客の視点でリアルタイムに見ることができたといいます。
著者は、一部上場企業のビジネスマンの傍ら「演劇」の舞台俳優として10年間活動。ビジネスと演劇の関連性に気づき、独自の感動創造手法を開発。勤務企業のV字回復に貢献した後、日本で唯一の感動プロデューサーとして独立した。その後10年以上に渡って、企業講演を重ね、著書も本書を含めて14冊にのぼる。日本では、本業は何か?と問われたとき、会社名を答える人が多く、欧米などでは従事している職種を答える人が多いというが、著者は「組織」でも「職種」でもなく「私の本業は人生です」と言い切っている。なんて、清々しい言い分だろう。
最近になって、本書同様、プラス思考に疑問を呈する本が複数刊行されている。なかには、脳科学の見地から、失敗や悪役が存在する人生ドラマを肯定する本も出版されている。本書は、ビジネスの見地から、プラス思考を凌駕する新たな思考法を紹介した本なのだ。そして特筆すべきは、著者自身の実体験や企業指導経験から生まれた実例を紹介している点である。そこには、数百社20万人にも及ぶ「感動プロデューサー」としての指導経験が生きている。まるで文学の名作を読んだときのように、思わず書き留めたくなる箴言が次から次に出てくる所以だ。
・ 花が花の本性を発揮したとき、人が人の本性を発揮したとき、最も美しくなる。
・ あなたの素晴らしさを知っている第一人者は、あなたです。
・ 他人の人格を演じることはプロの俳優に任せて、私たちは自分自身を演じましょう。
・ 準備をしている人のところへ幸運とチャンスが降ってくる。
・ 感動とは、生まれてきた意味を教えてくれる天のギフトです。
・ 「言葉に感情を込める」という言い方がありますが、プロの役者はそのようなことはしません。
なかでも最も私の胸に刺さったのは、最後の言葉である。私が講演できいた著者の朗読は、たとえ数分間のものであっても、2時間映画でも敵わないような感動が味わえた。会場スタッフが感動して泣いてしまったこともあるそうだ。今後も都内の本屋さんで出版記念講演会が予定されているそうなので、興味がある方はぜひ体験してみて欲しい。本の楽しみ方には、黙読のほかに講演会や読書会、朗読会など実に様々なものがある。今後ぜひ、本屋さんから発信されるそれらのイベント情報にご注目いただきたい。(※)
発売から1ヵ月ほどが経ち、そのメッセージが全国の書店員さんの心に届いた。そして、まるで「離見の見」の世阿弥のごとく、お客様の気持ちを想像した手書きPOPが売り場に飾られるようになった。そのPOPの文章をいくつかご紹介させていただきたい。
「苦手なあの人は、あなたのドラマをおもしろくする名脇役だった!」(ブックポート203栗平店)
「プラス思考はもう古い!!人生はドラマ。マイナスな出来事も重要な演出。ドラマ思考で退屈な仕事、人生に大きな感動を」(山下書店羽田店)
近江商人の極意「客のためになるものを売れ」。本書が、HONZをご覧になっている皆様にとって、ためになるものなのかどうか。私は近江商人になったつもりで想像した。人生を前向きに生きる一方で閉塞感を感じている方がいれば、まず間違いなく役に立つ本だ。これは、胸を張って言える。
でも、それだけなのだろうか。冒頭に戻るが、この本の読みどころの多さは、本書が10年以上の長きにわたり道なき道を歩んできた著者の集大成というところからきている。次の事実が、私の背中を押した。日本マイクロソフト、トヨタ自動車、パナソニック・・・数々の一流企業における著者の講演の最後には、スタンディングオベーションとなることが多かったという。この事実を知ったとき、読後の皆様の笑顔が私にははっきりと見えたのである。
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