次々と効果的な殺虫剤を開発し、農業化学分野では一目おかれる成果を出していた、とある30代後半の会社員。ある日、自宅でぼんやりテレビを見ながら酒を飲みつつ考えていた。
自分が本当にやりたいことは、なんだったのだろうか
ビジネスマンなら誰でも一度は思いなやむ悩みであろう。そしてこの日の悩み事が、その後、彼が所属する住友化学という大企業を突き動かしていくこととなる。「そうだ、海が好きだったんだっけ。俺は。」国内向けの仕事をしてきた彼には、海外の僻地で暮らす人々の光景が見えていた。
本書は、日本の化学メーカーが、アフリカでBOPビジネスを立ち上げる過程を、プロジェクトを推進した当事者たちの視点から描く一冊だ。新規プロジェクト立ち上げの苦悩と挑戦の物語が凝縮されており、本書を読むだけで疑似体験できる優れものである。
著者は、同プロジェクト立ち上げに中心人物として携わったマーケティングコンサルタント。プロジェクトの「中の人」が当時の様子をリアルに描写しているのが、本書の最大のウリといえよう。実在する人物たちがどのような葛藤を抱えながらプロジェクトを推進していったのか、どのような人材配置や役割分担がされたのかなど、組織内の生々しいやりとりが満載である。ビジネスマンにとっては新規プロジェクト推進の優良なケーススタディー書として読める。
住友化学が開発したのは、長期間にわたりマラリアを媒介する蚊を撃退させる高性能「蚊帳」。米『TIME』誌から「MOST AMAZING INNOVATION」と表彰され、世界保健機構WHOから使用が推奨されるマラリア対策の画期的な製品だ。日本ではほとんど使われることのなくなった蚊帳が、数段ヴァージョンアップされ、今ではアフリカやアジアなどでマラリアから幼い子供たちの命を守っている。
本プロジェクトは、もともと冒頭の当時30代後半の開発者の思いつきから始まり、紆余曲折をへて、大企業の看板製品の一つへと成長した。今ではBOPビジネスの代表的な成功例の一つとしてとらえられているが、もちろん、最初から順風満帆だったわけではない。
アフリカでのマーケティング、委託先の海外工場での生産、最終消費者むけの製品企画など、本プロジェクトは川上の原材料メーカーである住友化学にとっては異色極まりないものだった。そんなプロジェクトを支えたのが本書に登場する個性的なメンツたちである。
住友化学は、元外資系メーカー出身で破天荒・楽天家の水野達男を中心とし、販売・製造・開発それぞれの分野で粒ぞろいを集めた。しかも、水野含め主要ポストに転職組を配置。住友化学のような企業風土にあって、このような「外部の血」を中心とした組織づくりは異例中の異例である。読者は、この「外部の血」が保守的な住友化学の企業文化を活性化していく様子や、個性派集団たちがどのようにしてチームの一体感を醸成していくのかを楽しむことができる。
本書にはところどころに小コラムが挟まれており、著者が第三者視点で各ターニングポイントに考察を加えている。プロジェクトチームが体験した暗黙知や実践知を形式知化しようとする著者の試みであり、本書の白眉である。マーケターが陥りがちな罠や、チームでの議論の進め方など、実体験に基づく考察には説得力があり、これを読むだけでも本書を読む価値がある。
タンザニアの蚊帳製造工場を訪問した米国ブッシュ大統領(当時)は、視察後、こう本音を漏らしたという。
なぜ、このような工場がアメリカの企業ではなく日本の企業に、先に成し遂げられているのか。本音では、うらやましく感じる。
著者は自らの体験を語ることにより、今後、世界がうらやむビジネスを推進する企業人を増やしたいと思っているのだろう。本書の語り口から随所にその思いが感じられる。「自分が本当にやりたいことは、なんだったのだろうか」を改めて考えさせられる一冊だ。
ケニアでマカデミアナッツを製造する企業を立ち上げ、大手企業に育てた男性の話。破天荒な人生は読む人に勇気を与える。レビューはこちら。