「南洋」という言葉を耳にして、日本の元占領地であることがパッと思い浮かぶ人はどれくらいいるのだろう。「南の島」といえば真っ先に浮かぶのは、透き通った海が広がる常夏のリゾートだろうか(まさに自分がそうだった)。しかし、かつて日本が日本語教育を行い、神社を作って参拝させるなど支配を敷いていたのは東アジアだけではないのだ。
グアムを除く赤道以北の地域で、正式に日本による委任統治が始まったのは1920年。それまでドイツの植民地だったこの地域は、ヴェルサイユ条約によって日本の支配下となった。実際は日本が第一次世界大戦に参戦した1914年から軍が占領を始めていたため、1944年まで続いた南洋統治は実質30年に及ぶという。
そうした過去があるものの、南洋の人々は一般的に親日的と言われている。これは占領時に実施された教育制度やインフラの設備などによって、島民の生活水準が向上したことによるものだ。しかし著者は、「親日的」という言葉に引っ掛かりを覚える。
南洋群島は親日的。それは本当だろうか。南洋群島は親日的。そう日本人が口にする時にすっぽりと抜け落ちるものがあると思った。
本書は、日本による南洋統治について、10年以上にわたって取材した記録をまとめたものである。著者はシンガーソングライターでありエッセイストでもあるので、多忙な活動の合間を縫っての調査には長い時間を要したのだろう。しかし、「南洋の東京」と呼ばれるサイパンだけでなく、沖縄や八丈島にも足を運んで経験者に話を聞き、調査を積み重ねた地道さこそが、10年の歳月を費やした何よりの理由だと思われる。
とはいえ、史実がひたすら詰め込まれているわけではない。訪れた先々でのエピソードも随所に盛り込まれていて、紀行文のように読める部分もところどころにある。著者の表現を借りれば、「ノンフィクション・エッセイ」とでも呼べるような文章なので、情報量のわりに読みづらさを感じないだろう。
統治下の南洋の日常は、一見穏やかなものだったという。警官は暇で釣り三昧、街は衛生的で秩序立っていた。日本からの移民による開墾や、企業による産業の発展もあった。しかし当時の流行歌からは、そこが紛れもない植民地であったことが読み取れる。
「一等国民日本人、二等国民沖縄人、三等国民豚・カナカ・チャモロ、四等国民朝鮮人」
カナカ、チャモロというのは南洋群島の先住民のことを指す(実は「カナカ」というのは差別用語で、正しくは「カロリニアン」)。被占領民の彼らは「土人」という蔑称で呼ばれるなど差別を受けていたが、他にも沖縄人、数は少ないが朝鮮人など多様な出自の人々が、日本から来た内地人を頂点としたヒエラルキーのもとで生活していた。
著者は先住民、沖縄人、内地人という異なる立場で当時を生きた人々にそれぞれ話を聞き、統治下の複雑な人間関係に迫っていく。その中で見えてきたのは、「植民地での差別」や「親日的な南洋」といった単純な図式では南洋統治を捉えきれないという、至極当たり前だが、忘れられやすい事実だった。
たとえば、チャモロ・カロリニアンたちに禁酒令が課された時には、彼ら先住民と、主に沖縄人との間で密かに物々交換が行われていたようだ。
「台所のところに一升瓶置いておいて、それを一杯飲んで帰っていく、『叔母さん水が欲しい』って言ったら、母が振り向きもしないでどうぞという。するとお礼にはバケツ一杯の小魚を持ってくる。帰りは二杯くらい飲んで帰っていく」
このように差別を超えた交流があった一方で、南洋の人々が「親日的」だというのもまた安易な括り方に過ぎない。特に「戦時」という極限状態においては、支配する側とされる側の関係が非情なまでに露わになってしまう。
「戦争前はサイパンは平和だった。状況が変わると日本人は現地人を奴隷のように扱い始めた。人の家から彼らの欲しいものを奪い、それに反対すれば脅された。現地人はサイパン戦ですべてを失った。アメリカ人がそこから救ってくれ、よりよい生活の再建を手伝ってくれた。」
太平洋戦争時に勃発したサイパン戦。日本人に甚大な被害が及んだことは「サイパンの悲劇」として広く知られている。しかし、それ以外の島民がどれほど傷つき、どんな思いをしてきたのかについて知る人は少ない。著者はサイパン戦経験者へのインタビューに加え、現地で入手した、島民によるサイパン戦・テニアン戦の聞き書き集などを用いて、戦史研究のみでは見えてこないサイパン戦の様子が描き出していく。「日本とアメリカの戦い」という視点からはこぼれ落ちてしまう、島民の目から見たサイパン戦の実態は、ぜひ自分の目で確かめてほしい。
「南洋群島は親日的」。日本に溢れていた大雑把であまりにも一面的な物言いが、やはり現地では通用しないのではないか。人の数だけ思いがある。その思いも決してひとつの原色ではなく、一言では表現できない繊細な色合いだったりするのだ。
本書は日本統治時代の南洋史が体系的にまとまったものではない。『南洋と私』というタイトルからも分かるように、著者の聞き取りや周辺取材を元にした、個人史の集まりである。だが占領下での出来事や、そこに生きた人々の感情が複雑で一括りにはできないものである以上、多様な人々が語る「南洋と私」について読むことには、南洋統治を知る上で大きな意義があるだろう。
あとがきで著者はこう語る。
証言者がいなくなりつつある現在、重要なのはひたすら生きた声を拾い続けること、そこから歴史的な空間をたちあげてみることだ。
ある程度知識がある人もない人も、読後には「南洋」という言葉に対して、今までになかったイメージを抱くようになるはずだ。ひとつひとつは小さくても、確かに当時の様子を伝える声が、本書には書き留められている。
東えりかのレビュー
南洋統治時代においては、「かつお節」が日本の経済的南進の一翼を担っていた。
麻木久仁子のレビュー