二つの大きな世界大戦に見舞われた20世紀前半は、激動の時代であった。その時代の激しさと呼応するように、学問の分野においても天才たちは離散と集合を繰り返し、次々とエポックメイキングな出来事が起きている。
物理学においてはアインシュタインとボーアの論争を中心に量子力学の時代が幕を開け、経済学においてはシュンペーターやケインズ、ハイエクらが新しい概念を打ち出し変革の時を迎えていた。その双方の分野に共通するのが、天才たちが直に触れ合い、時には対立しながらも交流することによって、世界の捉え方を大きく前進させたことである。
同じような動きは、数学の分野においても見られた。しかし物理学や経済学と大きく異なっていたのは、この分野の天才たちが常に狂気と隣り合わせにあったこと、そして哲学の分野に含まれても不思議ではない、論理学という角度から数学に変革を迫ったことである。
本書は20世紀を代表する哲学者にして、数学者・論理学者としても知られるバートランド・ラッセルを主人公とし、「数学の基礎」の探求をグラフィック・ノベルで描いた一冊である。
論理が狂気を生むのか、それとも狂気が論理を生むのか。幼い頃より、宗教的な厳格さのなかで育てられたラッセルは、たびたび狂気に襲われる。それでも彼は「混乱した世界を救えるのは科学である」と固く信じ、数学のための論理的基礎を築くという目標へ立ち向かっていく。
そして彼と天才たちとの間に繰り広げられた「知の格闘技」のような競演。ラッセルのパラドックスとして知られる「それ自身を含まない全ての集合の集合は、それ自身を含むか?」という問いかけは、同時代の天才たちを震撼させた。
だが無限と真正面から向き合った天才たちには、無限の苦しみも付き纏った。カントールは狂気に陥り、ゲーデルはパラノイアから餓死し、ヒルベルトの息子は統合失調症と診断されたという。
また、エキセントリックな天才弟子・ウィトゲンシュタインも、この探求において重要な役回りを演じる。ラッセル同じ夢を見たのも束の間、やがて二人の仲は疎遠になり、ウィトゲンシュタインは戦争の最前線へと赴く。非合理の極みである戦争が、世界を覆い尽くそうとしていた。
しかしその後、「数学の基礎」のバトンを受け継いだゲーデルやチューリング、フォン・ノイマンらの尽力のもと、論理学は計算機科学へと結実し、やがてコンピュータ創世に至るまでの道筋が一本の線でつながっていくのだ。
そして本書において特筆すべきは、グラフィック・ノベルという表現形式だ。ノベルというだけあって、ラッセルと直接会ったはずのない人物との面会シーン等も含まれる。しかし、書簡や出版物を通しての交流は確認されており、カット割りや分かりやすさを優先するためにシーンを置き換えたと言った方が適当であるだろう。
論理学というと、数式一辺倒のイメージがあるかもしれないが、幼少時にラッセルを襲う狂気から守ったのは、幾何学の持つ数学的実在であったという。それゆえに代数・幾何、双方のアナロジーとして、著者たちはテキスト・グラフィックを用いるグラフィックノベルを選択したものと推察する。
つまり、結果的にコミックの形式が選択されたわけでもなければ、ノンフィクションの話をたまたまコミックにも仕立てあげたというわけでもない。内容と形式が不可分であり、表現技法を追求した結果として必然的にグラフィックノベルという形式へ着地したのである。
また、ラッセルのパラドックスのキーワードとなる「自己言及」を象徴するように、著者たち自身が本書の幕間に登場し、どのように演出していくかを話し合う風景も織り交ぜられている。
しかも、ラッセルの探求を結論付ける結びの場面においては、ギリシャ悲劇の『オレステイア』を引用するという手の込みようである。論理と狂気が生み出した悲劇的な結末、その先に新しい時代への希望を見出す。
本書を読んだ後、しばし呆然とした。自分にとって習慣化するほど好きなものの中ほど、盲点は潜んでいるのかもしれない。ノンフィクションがテキストを中心に書かれ、史実に忠実に書かれているという前提の中だけで善し悪しを判断し、形式そのものに目を向けることを疎かにしていたのは少し視野が狭かったな、と。
ノンフィクションをやや逸脱しているからこそ、その境界線が明確に可視化され、しかも自分が想定していたよりも外側にあると気付けたことが、最大の収穫であったと思う。そう感じるほど、本書のグラフィックノベルという形式には納得感があった。
内容と形式の間に記述された、もう一つの物語。こういう実例を示させると、紙の本か電子書籍かなどという形式にまつわる議論が、実に瑣末なものに思えてくる。
※画像提供:筑摩書房