国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
あまりに有名な民俗学の名著に記された、序文。明治43(1910)年に発表された柳田国男の『遠野物語』である。この時代、『遠野物語』にも登場する河童や座敷わらしは人々の身近に「いた」。しかし、深夜まで煌々と電気に照らし出された現代、そんな不思議に出会うことなどなさそうだ。
でも、山は違う。山には今も、「平地人を戦慄」させる「怪」が存在している!
長年、マタギなど山で狩猟生活をする人たちの取材を続けてきた著者は、「火の玉を見た」「あれは狐に化かされたんだろう」といった不思議な話を、あちこちで耳にする。いわゆる「オチなし」で民話のように完成もされていなければ、教訓を秘めた昔話のようでもない。ただただ、不思議で奇妙な話の数々。いま、誰かが書き留めなければ永久に消えていってしまう。それを丹念な取材でまとめたのが、本書である。
ホラー映画のように、これでもかとけたたましく人を怖がらせる何かは、山に存在しない。むしろ逆で、しみじみと、そしてじわじわと恐怖心は湧き起こる。
どんな話が出てくるか、目次からいくつか紹介しよう。
なぜか全裸で/辿り着かない道/汚れた御札/マタギの臨死体験/白銀の怪物/狐と神隠し/不死身の白鹿/もう一人いる/謎の山盛りご飯/ツチノコ飛びはねる/巨大すぎる狐火/不気味な訪問者/飛ぶ女 ……
そこはかとなく寒~くなるような薄気味悪い話もあれば、思わず笑ってしまうような滑稽な話もある。
たとえば、猟師が山の中にあるはずのない真っ白な一本道を進んで遭難しかけ、数年後、別の猟師もその白い道に遭遇する話。よく知った山で山野草が咲き乱れる美しい青色の池を見つけ、再び訪れると池が忽然と消えて森が広がっていたという話。何もないはずの冬の夜道に夜店が出現し、停電になったように突然消える話。これらは『遠野物語』のマヨイガ(山中にある不思議な家)を彷彿とさせる。
キノコ狩りに行った夫婦の夫が急に気分が悪くなり、妻が救助の人たちを連れて戻ってみると夫の姿が消えていて、山を探すと真っ白なキノコの群生に埋もれるように笑顔で息絶えていた、という話などは、じわじわと恐ろしい。
一方で、酔ってできあがった男が沢の横で一人、裸で暴れていて、「おらは勝新太郎と戦っていた」と答える話や、酒好きなお婆ちゃんが酔って行方不明になり、雪のない道を「あぃふげぇでぇ~あぃふげぇでぇ~(なんとまあ深いことだ)」と言いながら足を精一杯あげて歩いていた話などは、おもわず吹き出してしまったが、ほとんどヨッパライのヨタ話じゃない!とツッコミを入れたくなる。
とはいえ、こうしたヨタ話も、立派な「民話の原石」なのだ。
「昔は囲炉裏端で爺さん婆さんたちが集まって、一日中縄綯いしたり、春先の準備してたんだぁ。そこでよ、村のどこどこの話とか山の話とか、ずーっとしてるのさ。それを横の子どもたちも知らず知らずに毎日聞いてたもんなんだよ」(中略)
薄暗い家の中で唯一の暖房である囲炉裏の周りでは、飽きることなく同じような話が繰り返されたのだろう。(中略)何度も何度も人の口の端に乗ることで話は少しずつ熟成して、地元のおもしろい民話に化けたのかもしれない。薄暗く、閉ざされた空間だからこそ出来た話の数々。それはまるで樽の中でじっくりと熟成された酒のように、芳醇な香りを漂わせたに違いないのである。
著者が指摘するように、山での不思議な話は語りによって伝承されて、親から子へ、子から孫へ。ヨッパライの話もいつしか肉付けされて、「狐に化かされた教訓的民話」に育ったのではなかろうか。
本書では、こうした「原石」に著者のコメントも添えられているが、これが怪奇な話を扱いながらも全体におおらかな雰囲気を醸し出している。
猟場へ向かうマタギたちが、山道で編み機を持った女性と二日続けてすれ違う。だが、その女性が見えた人と、見えなかった人がいる、という話。
セーターなどを編む、あの編み機である。それを片手にぶら下げて山のほうから二日連続で降りてくるとは、いったいどれだけ編みものが好きなのだろうか。
……ツッコむところは、そこですかい?
畑仕事をしているとガサガサと音がして、亡くなったはずのおばあさんがカゴを背負って下草を踏みながら山に入っていく姿を見たのだが、おばあさんには足が無かったという話。
足は無くともしっかりと踏みしめる、さすが山の人である。山菜の季節にはやはりいても立ってもいられなかったようだ。
……感心している場合ですかい??
だが、こうした「原石」たちが時間をかけて磨かれ、物語へと昇華する機会は、着実に失われつつあるようだ。
「山の話? いんやあ、そんな話は孫さしねえ。したって聞かねえべ」(中略)山で不思議なことに出会っても、誰にも話す機会は生まれない。話さなければ、それをすぐに人は忘れてしまうだろう。つまり山の怪異は、語られてこそその命脈を保てる儚い存在なのである。
柳田国男が書いたように、日本の山村には無数の怪奇な伝説があったに違いない。遠野が「民話の里」としていまも知られるのは、佐々木喜善という稀有な語り手と柳田国男が出会い、それが書物として残された幸運によるところが大きい。その影で、日本中からおびただしい数の物語たちが、消えて行ってしまったはずだ。
家族の会話が減り、口からの伝承が廃れていくのは寂しい。語りが失われつつある現代でも、インターネットなどを介して、原石が物語へと進化をとげる可能性はあるけれど……。まずは原石をなくさないことが大切で、消える前に拾い集めて私たちに届けてくれた著者の地道なフィールドワークを讃えたい。そして、山への畏敬と親しみを込めて、改めて思う。
山にはやっぱり、何か「いる」!
冒頭の引用出典。
ハクビシンは、美味しいらしい! よし、今度見かけたら……。