限られた土地資源に制約され算術級数的にしか増やせない食料では、幾何級数的に増加する人口を支えることはできない。18世紀のイングランドに生まれヨーロッパ諸国の人口を観察した経済学者トマス・ロバート・マルサスはそう考えて、多くの人々もそれは動かしがたい事実だと受け止めていた。触媒の力を活用したハーバー‐ボッシュ法が、窒素をアンモニアに変えるまでは。
20世紀を迎えるころ世界人口は16億人にまで膨れ上がり、人類は深刻な食料危機に直面していた。食料生産性を上げなければその胃袋を満たすことはできないのだが、そのためには水と太陽以外に、多くの種類の元素を含んだ大地(特に窒素に富んだ大地)が必要となる。人糞やグアノと呼ばれる糞化石は多くの窒素を含んでおり、長く肥料として用いられていたが、その量は限られており増加し続ける人口を支えるには不十分だった。
ところが、種類を問わなければ窒素化合物そのものは珍しいものではない。なにしろ空気の8割は、窒素原子(N)が2つ結合した窒素分子(N2)なのだ。問題となるのは水に溶けない窒素分子は植物が吸収することができないところにある。それならN2を水溶性の化合物に変化させればいいのだが、三重結合で強く結びついたN2をバラバラにするのは容易ではなく、高い温度と圧力が必要となる。20世紀初頭にそのような高温高圧に耐えられる反応容器などなく、容器がもったとしてもエネルギー効率が非常に悪い。ルシャトリエの法則で有名なルシャトリエも実験中の爆発事故で、水溶性であるアンモニア(NH3)のN2からの合成を断念している。
ここで、「それ自身は変化しないが反応の速度を大きくする物質」である触媒が大きな役割を果たす。1908年に世界最大の化学会社であるBASFに入社したフリッツ・ハーバーは試行錯誤の末に、ウランやオスミウムを触媒として用いれば実験室レベルでN2からNH3を合成できることを示した。その後の工業化プロジェクトでカール・ボッシュがFe3O4を主体としたより実用的な触媒(ウランやオスミウムは希少なため工業用途に向かない)を探り当てる。1913年ついにアンモニア合成の工業化は成功し、人類はマルサスの予想した暗い未来を過去のものとした。
ユダヤ人でありながら強烈な愛国心からキリスト教へ改宗し、ガス兵器を開発したというハーバーの存在もあり、ハーバー‐ボッシュ法を巡るストーリーは『毒ガス開発の父ハーバー』や『大気を変える錬金術』など様々な書籍で語られてきた。しかしながら、開発者にまつわるエピソードや社会的影響を知っても、ハーバー‐ボッシュ法がどのようにN2の結合を解放しているのか、NH3へと組み替えられているのかを理解することはできない。
本書では、触媒を用いた化学反応を「原子・分子のレベルでどうなっているか」を理解することを目指している。前半部分では化学反応を考えていくさいに必要となる化学平衡や活性化エネルギーなどをおさらいしてくれるので、化学から遠ざかっていても心配することはない。また、アンモニア合成は反応が金属粒子の表面で起こるので、異なる物質の間である界面で何が起こっているかを知るための「表面科学」についても教えてくれる。
そうはいっても、原子・分子レベルで世界をとらえることは容易ではない。原子・分子はあまりにも小さいため、その動きを観察することは困難を極めるのだ。そこで化学者たちは、先ず「ミクロな世界を見る目」を用意する。例えば、金属表面に一酸化炭素(CO)がいるかどうかを“見る”ためには、赤外光を使用する。これはCOが、CとOの結合で伸縮振動を1秒間に6.5×1013回行っているために、特定波長(4.67μm)の赤外光を吸収することを利用している。つまり4.67μmの波長が吸収されれば、そこにCOの存在を確認する(見る)ことができるのだ。
本書では、白金表面にCOがどのように吸着しているかを実に鮮やかに解き明かす事例が紹介されている。赤外線でCOの存在を確認したり、白金表面の場所ごとの吸着エネルギーを計算したり、「ビュフォンの針」と呼ばれる数学的問題の考え方を用いることで、見えないはずの分子の動きが徐々に可視化されていく過程には興奮を覚えずにはいられない。最終的に、「(CO)分子は最初に表面に衝突してから、平均して約7Å表面上を移動して静止するということ」までが確かめられるのだから、驚きだ。10‐10mという極微小なÅ(オングストローム)の世界を、化学・数学・物理学の知識を総動員して解明していくさまは、さながら探偵と科捜研と警察の役割を1人でこなしているようでもある。
本書には10-15秒という時間解像度を得るための超短パルスや、より直接的に表面上の原子1つ1つを確認できるSTMなどがその原理とともに紹介されており、最先端科学の一端を垣間見ることができる。それでも、著者は「触媒、および触媒作用の本質を本当に分子レベルで理解するための道はまだ遠い」という。ハーバー‐ボッシュ法が人類の運命を変えたように、分子レベルの触媒研究は次なるブレイクスルーをもたらすだろうか。人工光合成などの新たなエネルギー源開発にも、新たな触媒が求められているという。とびきり小さなものを見ようとする目が、とびきり大きな未来をもたらしてくれるのかもしれない。
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こちらは触媒反応ではなく、生物の進化を分子レベルで見つめる一冊。分子進化の中立説についてしっかりと知るために最適な一冊。